断想さまざま

山村浩(哲学・静岡県藤枝市・宇久村宏=ペンネーム)の断想です。(yamamura6648@gmail.com)

岡潔の思想(いくつかの補助概念)その1

 一月も残すところわずかとなった。外はもう梅の花盛りで、一日家に閉じこもって過ごすと、ものすごく損をした気分になる。ちょっと前までは道端の水仙に目を楽しませていたが、今は「梅また梅」の日々で、相変わらず美しく咲いている水仙に対しては浮気でもしているような、ちょっと申し訳ない気持ちである。

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 岡潔の自我論ということで、何回かに分けてブログ記事を書いてきた。自我には三つの側面(主宰者、不変のもの、および自己本位のセンス)があり、はじめの二つの結びついたものが真我、あとの一つが小我である。
 こうした見取り図は、彼の著作を読む上でかなり役に立つと思う。私がここまで長々と、なるべく自分の見解は挟まずに、この概念を説明してきたのは、これから岡潔を読もうと思っている人にとって、一助になってほしいと思ったからである。
 以前にも書いたことだが、彼の著作はもっと現代の人たちに読まれるべきである。ここには現代の偏った価値観を修正する力がある。価値観とはふつう、行動や思考の基準として、意図的に選択されるものと考えられている。だが本当のところは、それは一時代の社会に遍満する空気のようなものであって、人々に半ばオートマチックに働きかけ、一定の方向へ向かうよう強要している。そうした無意識の価値判断に対して、岡潔の本は「ちょっと待て」と呼びかける力を持っている。むろん当の価値意識が健全なものならば、そのまま放っておいてもよいのだが、現代の価値観はかなり歪んだ不健全なものである。今の日本は、彼の言葉を借りるならば「火炎の燃え盛っている世相」である。現代日本に充満する息苦しさや閉塞感の原因は(少なくともその一端は)、この歪んだ価値観によるものである。
 さて「岡潔論」の今後の予定だが、ここまで紹介してきた思考の見取り図に依拠しつつ、教育や芸術、数学などについて論じていきたいと思っている。だがそうするとかなり長丁場になってしまうので(読んでいる皆さんだけでなく、書いている私もそろそろ息切れがしてきています)、区切りのよいところでいったん中断し、しばらく経ってからまた戻ってきたいと思う。だがその前に、これまで書いてきたことの延長上で、いくつかの補助的な概念を説明しておきたい。それは今後予定している教育論や数学論にも有効なものである。

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 岡潔は人間の「関心」を三つに区分している。第一は社会への関心、第二は自然界への関心、そして第三は法界への関心である。一番目の「社会への関心」とは、自他の区別、つまり自己本位のセンスというレベルで働く関心である。

 自他の別のある世界が社会である。人は社会の「もの」や「こと」には「関心」が持ちやすいのである。
 十代の女性が百貨店に行く。そうすると靴が目につく。これが関心である。いったん靴に関心を持ち始めると靴のことが実によくわかってくる。そしてどれを買おうかというのでいろいろ選び始める。時間などいくらかかろうといっさいとんちゃくしない。最後にこの靴と決めるまでやめない。その間靴に対する関心はずっと持ち続けられているのである。(岡潔集第二巻、62-63頁)

 あるいはこんな例も挙げられている。駅のプラットフォームで電車を待つ乗客の「関心」である。「電車がもう来るとなると、いっせいに身がまえ心がまえる。電車がはいってきて徐行すると、どのドアにしようかとうかがう。目の色が変わっている。止まると、降りる人を少しやりすごして、両側から中へもぐり込む。そして自分の席を占める。」(同63頁)岡はこの関心を「無明の力」によるものだと説明している。それは対象を「わがものにしよう」と思うことによる関心なのである。
 二番目は、自然界の物や出来事への関心である。これは、科学者の関心のようなものを考えてみれば分かりやすいだろう。社会的関心は、「持たないでおこうと思っていても、またしても持ってしまう」類いのものである。物質的所有や生理的充足への欲求は、人間においては非常に強いからである。これに対して自然への関心は、ある程度の努力が必要である。少なくとも日常生活で、否応なしに抱いてしまうような関心とは異なる。
 とはいえ自然界に対しては「それでも、まだしも関心が持ちやすい」。だが「ここを超えるとなかなか関心が持てなくなる」(同65頁)。自然界を超えたものへの関心、これが「法界への関心」である。
 「法界」はいうまでもなく仏教用語だが、法身や真如などとほぼ同義であって、目に見える世界の根底にある存在の普遍的な層、森羅万象の基底たる常住不変の実体である。だがこれを、物質的世界の「下」にある基体のようなものと考えてはいけない。それは物質界に内在しつつ、しかもそれを超越したものとして、いわば物質世界を包みこむものである。

 社会は一番狭く、自然界はそれより広く、法界は一番広い。人の心は狭いところに閉じこめられてしまっている。だから広いところの「もの」に関心を集めることはなかなかできないのである。(中略)
 法界は一即一切、一切一即の世界だから、その一法に関心を持ち続けておれば、心は全法界に広がっていることになる。
 心を全法界に広げているのでなければ、注意が全体にゆきわたるということはない。(岡潔集第二巻、69頁)

 こうした「法界への関心」を「真我」や「主宰者」という概念で説明するならば、以下のようになるだろう。

真我とは法界における一つの法であって、主宰者という働きの一面と、不変のものという本質の一面とを持っている。真我(主体である法)が関心を一つの法(客体である法)に集めているとき、主宰者の位置は対象のところにある。(同65頁)

 したがって「法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない」。主体の法と客体の法の関係は、私が「ここ」にあり、物が「あそこ」にあって、両者が対立的に向かい合っている関係ではない。以前に使った梅のたとえを用いると、「ここ」にいる私が「あそこ」にある梅を眺めるのではなく、「あそこ」において梅を知る(内在的なリアリティーにおいて知る)のである。
 主宰者の「位置」は客体のところにある。それゆえ私(主宰者としての私)は「『自他の別』を超え、『時空のわく』を超える」こととなるだろう。ところでこれこそが、彼のいう数学的思考の原理にほかならない。

数学の本質は、主体である法が客体である法に関心を集め続けてやめないということである。このことは当然「算数」の初めからそうなのである。(同68頁)

 「法界への関心」ということで、彼が第一に念頭に置いていたのは、数学的思考における「関心」であった。だがそれは数学に限ったことではない。絵画や音楽などの芸術活動においても、対象はいわば「内在的に知る」というかたちで体験されているし、宗教たとえば禅の見性などは、典型的な「法界の体験」であろう。実際彼は、数学の本質は禅と同じだと述べていて、学生を禅寺へ連れて行ったり、道元の『正法眼蔵』を読ませたりしていたのである。