断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

2012-01-01から1年間の記事一覧

よいお年を

冬休みに入ってほっとしたのもつかの間、たちまち大晦日を迎えてしまいました。今年一年、当ブログをご愛読いただき、ありがとうございました。個人的にはなかなか起伏の多い一年でしたが、大きな自然災害もなく、無事新年を迎えられることに感謝の一言です…

米長邦雄氏を悼む

将棋の米長邦雄氏が亡くなった。享年69。数年前からガンを患い、最近は具合も芳しくないという話をちらほら耳にしていたのだが、それにしてもあまりに早過ぎる死であった。昭和の大名人大山康晴やそのライバル升田幸三も、七十になるかならぬかで他界してい…

選挙とジャンケン

いよいよ明後日が総選挙ということになった。例の「サプライズ解散発言」からあっという間の一ヶ月であった。 どこかの政党の代表だか代表代行だかが、「候補者はジャンケンで決めればいい」と発言して物議を醸した。しかしジャンケンはともかくとして、籤で…

私の健康法

先週末のことになるが、近所の瀬戸川沿いに、自転車で山のほうへ走ってきた。 福田和也氏がどこかで、「ちょっと背伸びをすれば海が見えそうな」と静岡の里山風景を評していたが、瀬戸川の谷もまさにそんな趣きで、柔和でなだらかな山並みがどこまでも続いて…

山内志朗著『普遍論争』

これはちょうど二十年前(1992年)に出た本で、四年前に文庫化(平凡社ライブラリー版)された。私が手に取ったのは後者のほうである。 哲学思想関係の入門書の目的は、思想の見取り図を、初心の読者に示すことにある。しかし一方で、「思想内容を要約的に示…

批評と解釈

東浩紀氏がどこかでこんなことを書いていた。 1980年代に隆盛を極めたいわゆるポストモダン思想は、今日、批評のスタイルとしてはすでに過去のものとなっている。したがってポストモダン思想に対する批判は、過去の(たとえば浅田彰氏や中沢新一氏の)幻影に…

HAIKU(俳句)-ドイツ語版ウィキペディアより

以下に掲げるのは、ドイツ語版ウィキペディアの"Haiku"という項目から訳出したものである。 さまざまな読みへの開かれ ふつう俳句は平仮名で書かれる。すなわち意味規定をともなわない純粋な音声文字によって記述されるのである。たとえば次のような有名な句…

『タッチ』と『のだめ』

先日、立ち寄った喫茶店であだち充氏の『タッチ』を見つけ、懐かしく読み返した。 あまりにも有名な作品だが、ストーリーのあらましを述べておこう。主人公上杉達也は双子の兄弟の兄である。野球部のエースピッチャーとして活躍する弟と比べると、ずぼらな怠…

場所のない風景

3・11からおよそ一年半が経った。被災地以外の生活はとっくの昔に平静を取り戻しているが、いつまた再び破局的な惨事に見舞われかねないという思いは、ずっと消えずに残っている。それはマスメディアの煽りのような、はっきりとした形を取るだけでなく、私た…

「青山杉雨の眼と書」展(東京国立博物館)

上野の国立博物館で開かれていた「青山杉雨の眼と書」展を観てきた。杉雨は「昭和から平成にかけて書壇に一時代を画した書家」(パンフレットによる)で、篆隷における個性的な仕事で名高い。 私のような素人は、たとえば書の展示会などで書かれている文字が…

高校野球観戦記

夏の甲子園大会が終わった。私の部屋にはテレビがないので、大会期間中も思いついたときにラジオのダイヤルをひねるくらいだったが、それでも野球は好きである。ピッチャーとバッターの一対一の勝負は、いつ見てもわくわくする。サッカーにもPK合戦やフリ…

日本の景観・その同一的なもの(日本の景観 その8)

第二次輪郭線は、空間内部における浮遊物ともいうべき存在である。これに対して第一次輪郭線は、空間に対して能動的かつ構成的に作用する。すなわち元々ある自然的な空間を再構成し、二次的地形ともいうべきものを作り上げるのである。 前回の記事で、日本で…

第一次輪郭線と第二次輪郭線(日本の景観 その7)

芦原義信氏は街並み空間を考察するにあたって、「第一次輪郭線と第二次輪郭線」という概念を提示している。 ここで建築本来の外観を決定している形態を、建築の「第一次輪郭線」と呼び、建築の外壁以外の突出物や一時的な付加物による形態を建築の「第二次輪…

村祭りから渋谷センター街まで(日本の景観 その6)

ところで中島氏は、そうした駅前商店街的な猥雑さを、日本人の心の原風景といえる「祭り」とのつながりから考察している。 (前略)鎮守の村祭りのひっそりした太鼓や笛の音から、スピーカーによる耳をつんざく盆踊りまでたった一歩であるように、裸電球が揺…

「うち」と「そと」(日本の景観 その5)

前回、景観改善をめぐる知識人の提言が、なぜ住民や行政に届かないのかということについて書いた。しかしそのこととは別に私は、日本の景観が、いわば内在的な理由から改善困難なのではないかと考えている。少なくとも西欧的な意味での「美観」を阻むものが…

翻訳大国ニッポン

ここ数回、「景観」をテーマに記事を書いてきた。実はまだもう少し続きがあるのだが、今回は息抜きを兼ねて別の話題にしたい。 私は人文系の大学院を出ていて、いわゆる研究職というものをやっている。一般社会からすれば浮世離れして見えるこの業界だが、そ…

異化と景観(日本の景観 その4)

ロシア・フォルマリズムに「異化」という概念がある。たとえば日常会話などで使われる言語は、コミュニケーションの「道具」であり、何かを相手に伝えるための「手段」である。そこでは言葉は、いわば手垢にまみれた状態で使用されている。ロシアフォルマリ…

中島義道氏の『醜い日本の私』(日本の景観 その3)

先日、中島義道氏の『醜い日本の私』という本を読み返す機会があった。これはじつに痛快な本で、日本の景観の醜さ、汚さ、いかがわしさを、これでもかとばかり書き立てている。(じつは今回、「日本の景観」というテーマでブログ記事を書き始めたのは、この…

住めば都(日本の景観 その2)

私が「日本を訪れる外国人の目」などというものを持ち出すのは、第一には私の虚栄心によるのだが、もちろん理由はそれだけではない。景観というものは、その性質上、よそからやって来た人間が一番よく見えるのである。裏を返せば、日本に長く暮らしていると…

恥ずかしい日本の私、恥ずかしい私の日本(日本の景観 その1)

最近はドイツのメディアでも中国のことがよくとり上げられる。何年か前のドイツの雑誌『シュピーゲル』の特集記事に、「ライバル―中国対ドイツ:世界市場をめぐる戦い」というものがあった。記事の内容自体はとりたてて目新しいものではなかったが、興味深か…

「邪悪」をめぐる考察

かれこれ十年以上も前、私がまだ学生だったころのことである。近所のコンビニでたまたま目にした「信長の野望」のゲームソフトを買った。家に帰り、さっそくパソコンで開いて遊び始めると、これが面白くてやめられず、気がついたら十数時間経過していた。ま…

吉田秀和氏を悼む

吉田秀和氏が亡くなった。享年九十八歳。天寿を全うしたというべきなのだろうが、やはり寂しい。5月22日に亡くなった後、一週間ほど間を置いて新聞で知ったのだが、その直前の日曜日に、氏の担当する「私の視聴室」を聴いたばかりだった。たまたま途中か…

ボストン美術館展(東京国立博物館)

ちょっと前になるが、上野の東京国立博物館で開催されている「ボストン美術館展」に出かけてきた。この手の企画展(○○美術館展のたぐい)のご多分にもれず、総花的でいまひとつ焦点のはっきりしない展覧会だったが、さすがに見どころのある作品も混じってい…

グルメの話

南欧の人間のライフスタイルを見ていると、毎日食事の時間をたっぷり取っていて、「食の楽しみ」に徹底したこだわりを持っていることが分かる。彼らにとってグルメとは、おそらく「贅沢」というよりも一種の生活必需品なのであろう。ちょうど日本人にとって…

ふたたび教師の新学期

ふたたび新学期がはじまった。ABC(アー・ベー・ツェー)から接続法(英語の仮定法に相当する)にいたる長い道のりの開始である。 初級文法の授業では、教師の思惑と学生の反応がしばしば食い違う。「難しいかもしれない」と思って与えた課題がそうでもな…

シューベルトとドヴォルザーク

ともに音楽史上、屈指のメロディー・メーカー。しかしそれとは別の意味で、私は二人にある共通点を感じるのである。 シューベルトは古典派からロマン派への移行期に位置する音楽家で、厳密にはロマン主義の作曲家とは呼べないかもしれない。しかしその音楽は…

本日は晴天なり

今日はすばらしい日和だった。 風はまだ寒いけれどからっと晴れ、空を流れる大きな雲が、日差しをいっぱいに孕んでまばゆいばかりに輝いていた。春を通り越して初夏を予感させる眺めである。東京を離れていると不便なことも多いが、この気候はありがたい。

梅見のはなし(菊川市の黒田家代官屋敷)

菊川にある黒田家代官屋敷へ梅見に行ってきた。菊川の町は、茶で有名な牧之原台地の西側に位置する。黒田家代官屋敷はJRの菊川駅と御前崎の中間あたりにある。 JR菊川駅に降りると、前日までの雨もあがって、まぶしい日差しが降っていた。そこからバスで…

私がワインを飲めない理由

「ワインを飲めない」と書いたが、正確には「赤ワインを」である。白は普通に飲めるのである。 今から数年前のことである。とある論文の締め切りがぎりぎりになってしまい、無理やりにでも書き上げなければならなくなった。私は徹夜というものができない人間…

ボンクラーズと米長邦雄(4)

「ルール」と「定跡」の区分は、それを文学や芸術の領域に適用しようとするやいなや、たちまち曖昧になってしまう。というのも芸術においては、主観的なものと客観的なものを分けることにそもそも無理があるからであり、「新しさ」が「ルール」のレベルでの…