断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ふたたび教師の新学期

 ふたたび新学期がはじまった。ABC(アー・ベー・ツェー)から接続法(英語の仮定法に相当する)にいたる長い道のりの開始である。
 初級文法の授業では、教師の思惑と学生の反応がしばしば食い違う。「難しいかもしれない」と思って与えた課題がそうでもなかったり、逆に「易しいだろう」と思ってやらせたことが、学生にとってはひどく困難だったりする。何年も教えていると、だんだんそうしたことは減ってくるが、それでも完全になくなるということはない。
 こうした「食い違い」が生じるのは、教師の頭にはドイツ語文法の見取り図がしっかりとインプットされているのに対し、学生の側にはそれがないからである。教師もはじめは(つまり大学一年で学びはじめたときは)「五里霧中」の状態だったのに違いないのだが、長年専門家をやっていると、そういう状態を忘れてしまう。初学者が味わっている「難しさ」の感覚を追体験できなくなってしまうのである。
 学生(その語学の初学者)と語学教師の関係は、たとえて言えば探検家と現地案内人のようなものであろう。熟練した案内人は、その土地を歩くのに地図を必要としない。彼は地形を体で覚えこんでいる。一方の探検家はそもそも自分がどこにいるのかさえ分からない。彼は「五里霧中」なのであり、方向感覚の欠如があらゆる不安や恐怖の原因となっている。したがって案内人は、やみくもに目的地へ急いだりせずに、まずはその土地の大まかな見取り図を探険家の頭の中に作ってやるよう配慮すべきである。そのためには自分の「土地勘」をいったん括弧に入れ、探険家の味わっている「五里霧中」の感覚を追体験してやる必要があるのだが、これがなかなか難しい。
 先日、書店の語学コーナーで、たまたまイタリア語の文法書を手に取った。その本をぱらぱらとめくっている内に、突然、新しい言語をやるときのあの「五里霧中」の感覚が蘇ってきた。(ちなみに私はイタリア語を全く勉強したことがない。)そのとき思ったのだが、語学教師というのは、たまには自分の知らない言語をかじってみるべきなのかもしれない。むろんこれは「かじる」程度であって、本格的に勉強しようと思えば体がいくつあっても足りないであろう。