断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

2013-01-01から1年間の記事一覧

舞台俳優のアウラ

大学時代の後輩の招待で新橋演舞場の『さらば八月の大地』を観てきた。ほぼ一年ぶりの観劇である。 観客席に座り、やがて幕が開くと、舞台上の大道具小道具にまじってすでに俳優たちが立ち動いている。だが舞台と観客席の間にはまだ一種の隔たりがあり、俳優…

そしてバイクの旅

一方のバスは、車内空間そのものの魅力が乏しい上に、道路という、これまた味も素っ気もない空間を移動していく。旅のツールとしては魅力が乏しいと言わざるを得ない。むろんバスにもメリットはあって、たとえば車窓風景は、道の選び方次第で列車の及ばない…

列車の旅、バスの旅(3)

バスの車内空間は乗客が自由に行き来することができない。座席は座るために特化された場所であり、乗客は目的地まで、この狭い場所にとどまっていることを余儀なくされる。列車の空間はこれに比べるとずっと余裕がある。私たちは座席から立ち上がって車内を…

列車の旅、バスの旅(2)

乗り物の内部空間の問題はさしあたり措くとして、まずはバスが走る「道路」と列車が走る「線路」とを比較してみよう。両者はともに一次元の「線」だが、性質はかなり異なっている。 道路は、なるほど地図の上では複数の土地を結ぶ「線」であるが、実際にはそ…

列車の旅、バスの旅(1)

先週末は大学が学園祭で、金曜日の授業が休講となった。秋のセメスターが始まってちょうど一ヶ月、そろそろ疲れもたまり始めていたので、ほっと一息つけた。ちょうど11月の初日で、折から風一つない穏やかな小春日和だったから、昼から大井川の川根温泉へ出…

花火の美学

八月も半ばになろうとするある日、天竜方面へ日帰り旅行をしてきた。浜松経由で遠鉄の電車とバスを乗り継ぎ、水窪からJRの特急に乗って天竜峡へ向かった。天竜峡駅に降り立ったのが昼の十二時半。自宅を出てからすでに五時間が過ぎている。ここは川下りで…

南木曽駅にて

夏休みを利用して信州へ小旅行をしてきた。その帰り、松本から名古屋方面の列車に乗った。松本を出たのが午後の三時過ぎで、名古屋に着くのが夜の八時である。長丁場の行程に備えてビールやつまみをたっぷり買い込み、日差しがゆっくりと傾いてゆく木曽谷の…

大井川の晩夏

いま僕は、大井川の河川敷にある大きな樹の下にいる。河川敷は幅が一キロもあり、しかも視界が数キロ先の上流まで開けているから、まるで広大な平原にいるようだ。川面ははるか遠くに見え隠れするばかりで、あとは一面の草の原である。ところどころに生えた…

記憶をめぐる断想

連日の猛暑で、四国の四万十市では記録的な気温を計上したようである。清流四万十川が流れる四万十市が、なぜ日本列島でも指折りの高温を記録するのか?新聞記事にこう解説されていた。四万十市の測候所は江川崎という場所にある。そこは四囲を千メートル級…

プレ夏休み(東京国立博物館「和様の書」展)

前期の授業が終わった。二ヶ月間の夏休みの始まりである。研究者は一種の個人事業主で、授業は「オフ」でも本当の意味での「休み」とはいえないのだが、それでも二ヶ月間、自分だけの自由な時間が得られるのはありがたい。 ところで大学のセメスターは、学校…

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その3

「忘れえぬ人々」で描かれているのも、これと同じ種類の詩趣である。「その時油然として僕の心に浮かんでくるのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景のうちに立つこれらの人々である。」 ところで俳諧的な詩意識は、…

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その2

「武蔵野」で独歩はこう記している。 (前略)市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場所を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹くだろうか自分…

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その1

「忘れえぬ人々」の舞台は溝口である。今は東急田園都市線と南武線の交差する繁華な土地だが、当時は草深い場所だったらしく、小説の冒頭で、冬の夕暮れの陰鬱な茅屋根風景が描かれている。 その地の亀屋という旅宿でたまたま同宿した二人の青年、無名の小説…

モーツァルト 十番台のピアノ協奏曲

前回の記事で、モーツァルトのピアノ協奏曲のことを書いた。その際、二十番台のピアノ協奏曲は晩年の円熟した作品で、十番台はそこへいたる発展途上の作であるかのような書き方をしてしまった。これは全くの間違いではないが、誤解を招きやすい表現である。…

ベズイデンホウトのモーツァルト

少し前のことになるが、片山杜秀氏の「クラシックの迷宮」という番組(NHKFM)で、ベズイデンホウトのフォルテピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲第17番(第三楽章)が紹介されていた。これが実に素晴らしい演奏で、ラジオに向かって思わず拍手喝采した…

時差ぼけ二時間

大学の授業が始まって一ヶ月半が経った。最近は少々ノドが嗄れぎみで、つくづくこの仕事は体が資本であることを実感している。 前年度の授業が終わったのが一月の終わりで、新学期がはじまったのは四月の初めだから、その間およそ二ヶ月間の休みがあった。学…

映画『アマデウス』

オスカー・ワイルドをめぐるジードの回想録に、こんな話が出てくる。 ワイルドは当時、イギリスではご法度だった男色を実行していた。その筋の若者を集めてクラブを結成し、指輪を交換して結婚式を挙げ、しかもそのことを方々に吹聴して回っていた。 ジード…

私の俳句修行

私は「りいの俳句会」という会に所属している。これは大学時代の恩師であり、職場の上司でもある檜山哲彦先生が主催されているもので、会員になると毎月、句誌に投稿することができる。五句を上限に投句し、その中から比較的出来の良いものが選ばれるのであ…

清水現代アート研究会(2)(ダリの『記憶の固執』)

『記憶の固執』はいうまでもなくダリの代表作で、あのぐにゃりと曲がった時計が、不思議に静謐な海辺の光景に配されている絵である。この作品のテーマが「時間」であるのは明らかだが、実はこうした言い方はかなり曖昧である。またここでは時間の「流れ」は…

清水現代アート研究会(1)

静鉄の狐ヶ崎駅にある「スノドカフェ」(正式名:オルタナティブスペース・スノドカフェ)で、月に一回、現代美術をテーマにした会(清水現代アート研究会 http://www.sndcafe.net/monthly/sgak.html)を開いている。ここは現代美術以外にも、演劇や音楽など…

大井川逍遥(3)

まだ機材をいじっているカメラマンたちを後に、私は温泉の建物を目指して歩き出した。大きな駐車場を過ぎて建物に入り、受付で手続きを済ませて湯へ向かった。浴場が近づくと、人いきれと温泉臭がまざったような独特の匂いが立ち込めてきた。それが妙に人恋…

大井川逍遥(2)

沈んだ気持ちのまま駅へ戻り、二駅戻って川根温泉笹間渡駅で降りた。ここの湯は大井川をのぞむロケーションが素晴らしく、湯量も多い。その温泉につかっていくつもりだった。 線路伝いに道を歩いていくと、満開の河津桜が見えた。近づいていくと、桜のたもと…

大井川逍遥(1)

大学の冬学期が終わって一ヶ月半、研究ばかりの毎日に嫌気がさして旅行に出た。といっても日帰りの旅、行く先は近場の大井川である。 旅に出る前は、期待まじりの不安な気分になることが多い。その時の精神状態にもよるのだが、今回はことのほかその不安が強…

ニーチェ『悦ばしき知識』より

久々にニーチェの『悦ばしき知識』を通読している。短めのものからいくつか引いてみたい。 155.私たちに欠けているもの。― 私たちは「偉大な自然」を愛し、またそれを発見した。が、それは私たちの脳裏に「偉大なる人間」というものが欠落しているからであ…

図画の思い出

絵を描くのは昔から苦手だった。それでも小学生のころは、野外に出て描くことが多かったから、それなりに楽しみもあったのだが、中学生になって静物画ばかり描かされるようになると、もはや苦痛以外の何物でもなくなった。 私が絵に興味をもつようになったの…

小林秀雄について

小林秀雄について、個人的な感想を一言。 スーザン・ソンタグはロラン・バルトを論じたエッセイの中で、彼の書いたものには自分の感受性を誇るようなところがあると延べ、そうしたことは審美的な資質をもつ書き手に通有のものでもあると指摘しているが、これ…

小林秀雄の「鐔」(今年度のセンター試験現代文)

今年度の大学入試センター試験で、小林秀雄の「鐔」が出題されていた。自身の骨董体験をもとに、刀の鐔について論じたものである。 高校時代、大学入試の現代文は何でこんなに難しいのだろうと思っていた。何年か経ち、当時の教材を読み返してみると、何のこ…

禅と年賀状

謹賀新年。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 さて新年最初のお題は、身も心もきりりと引き締まる「禅」で行きたいと思います。 ※ 年末に突然歯が痛み出した。すでに神経を殺して治療を終えてある場所なのにずきずきする。歯ブラシを当てることさえま…