断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

列車の旅、バスの旅(2)

 乗り物の内部空間の問題はさしあたり措くとして、まずはバスが走る「道路」と列車が走る「線路」とを比較してみよう。両者はともに一次元の「線」だが、性質はかなり異なっている。
 道路は、なるほど地図の上では複数の土地を結ぶ「線」であるが、実際にはそこを多くの人や車が行き交う「場所」であり、(一定の制限内で)前後左右自由に移動できる。それは「線」というよりは「面」あるいは「空間」である。防音壁に囲まれた4車線の高速道路などは文字通り一種の閉鎖空間であるし、商店街の道路なども人々が行き交う「場所」である。逆に車がほとんど通らない山間の林道などは、道が外部空間そのものに融解してしまい、別の意味で「線」ではなくなってしまっている。
 一方、線路のほうはどうだろうか。線路も道路と同じように、一定の敷地を占有する「空間」である。しかし前後左右に移動できる道路とは異なり、線路の上は「前」と「後」にしか動けない。それは物理的には「空間」だが、機能的には「線」なのである。さらに私たちは、列車で移動中に物理的存在としての線路というものをほとんど意識しない。線路すなわち二本の鉄の棒は、列車に乗り込むやいなや私たちの視野から消えてしまう。これは道路を走る場合とは対照的で、車やバスで移動するとき、私たちは道路という「場」をたえず意識させられる。乗客にとって線路は「虚」の存在だが、道路は「実」の存在である。
 「線路は続くよどこまでも」という歌がある。あそこで歌われている「線路」とは、遠い異郷の地と日常生活の場を結ぶロマンチックな媒介物である。(これを「道路は続くよどこまでも」という風に変えてみると、そのバカバカしさは明らかであろう。)その意味でそれは、現実の存在であると同時に主観的な存在、私たちの心の中で「この地」と「あの地」をつなぐ内的表象としての「線」である。その際注意すべきは、「この地」と「あの地」の隔たりが、空間的であると同時に時間的だということであろう。内的表象としての「線」は、私たちの中にある時間のイメージと切っても切り離せぬものであり、「遠い土地」はいわば「時空の彼方」に定位されるのである。鉄道ファンにとって時刻表が重要なアイテムであるのは、おそらくそのためであろう。
 列車の旅においては、線路(物理的存在としての線路)が「虚」であり、経路(表象としての「線」)が「実」である。一方のバス旅においては、道路(物理的存在としての道路)は「実」であり、経路(地図の上での「線」)は「虚」である。列車の旅をするということは、いわば日常の生活空間から表象の内部へと身を移すことなのである。が、それは同時に、列車という固有の空間の内部へ身を置くことも意味している。それでは列車の内部空間とはどのようなものなのだろうか。