以前にあるクラスで、学生の一人がこんな話をしてくれた。ある教官が、色々な国家資格の「値打ち」を評価した。この資格はいくら、あの資格はいくらと、具体的な金額で値踏みしたというのである。もちろん国家資格そのものに値段がつくわけがない。生涯収入に換算し、どれくらいの金銭的価値があるかを説明したのである。
これはコロナ騒動以前のことだから、それからもう十年近く経つ。はっきりしたことは分からないが、たぶんこの「予想」はほとんど外れたのではないだろうか。AIの急速な進化で、もはやホワイトカラーの職場そのものが、根こそぎ奪われかねないと危惧されているからである。
とはいえこの教官の「先見の明のなさ」を責めることはできない。たとえばあの当時、マスコミなどで「老後の二千万円」ということがしきりに言われた。定年退職するまでに二千万円をストックしておけば、老後は安泰だというのである。だが今の日本で、老後は二千万円で大丈夫と思っている人は、まずいないだろう。
えてして私たちは、今現在の状況が、将来にわたってずっと続くように思い込んでしまう。たとえば戦後の一時期、造船などの重厚長大型の産業は、就職先として大人気だった。バブル期には公務員は不人気業種だった。同じくバブルのころ、ある高名な批評家が「もうアメリカはダメだね」とばっさり切り捨てていた。それより少し前だが、保守系の有名な論客が「中国の近代化は未来永劫起こらないかもしれない」などと予測していた。
さてこれからの時代、AIが人間にとって代わると言われている。ホワイトカラーは淘汰され、ブルーカラーの価値は高騰するというのである。なるほどその可能性は高いかもしれない。だが100パーセント確実と言えるのだろうか。未来など予測できないという事例が山ほどあるのに、なぜこの一事だけは「外れることのない予想」と断言できるのだろうか。
たとえば、一般人のAI使用が禁止されるという未来は考えられないだろうか。あるいはAIのシステムそのものが自壊することは起こらないだろうか。もちろんそうならない可能性のほうが圧倒的に高い。だがそうした事態が絶対に起こらぬと決めつけるのは、危険ではないだろうか。何にせよ未来の話に、100パーセント確実ということはない。だとしたら僕たちも、「AIを使えない未来」を、一応は視野に入れておくべきではあるまいか。
世の中全体でAIが使えないというのは、ある種の極限的状況である。だがもう少し条件を絞れば、AIを使えない状況なんていくらでも考えられる。旅先や出張時にスマホが故障することは、いつあってもおかしくない。試験や面接では、そもそもAIを持ち込むこともできない。そんなときに頼れるのは、自分の脳みそだけである。
さてこのブログ記事を書いている最中に、内田樹氏の「AIと知性」という文章を読んだ。
AIが書いた論文は「完成した論文」である。でも、実際に論文を書いたことのある人間はわかると思うが、人間にはそんなものをいきなり出力することはできない。ほんとうは、さまざまな試行錯誤があり、逸脱があり、行き止まりがあり、前言撤回があり、仮説の書き換えがあり、最終的に論文の体裁がかろうじて整うのである。AIの書いた論文には、その「やっと恰好がついた」感がない。あるはずがない。推論の過程で立ちすくんだり、行き止まりにつきあたって引き返したり、行論上の段差を跳び越えた形跡がないのである。まるで、平らな舗装道路をすたすた歩いたかのようにテクストは書かれている。AIは完成した論文を出力する。完成したものしか出力できない。
この意見は半分正しいが、しかし半分は間違っている。なるほど単発の回答だけを見れば、AIには「試行錯誤」も「逸脱」もないだろう。「行き止まり」や「前言撤回」も、「仮説の書き換え」もあるはずがない。また論理展開における創造的な跳躍も認められない。だが人間との対話の中で、こちらが有効な質問をすれば、ちゃんと前言撤回する。そして一連のやり取りを振り返れば、いたるところに試行錯誤や逸脱が認められる。AIを人間の思考の内へ巻き込むことで、AIの回答もまた「人間的」なものとなりうるのである。
話を元に戻すと、これからの世の中では、AIを使いこなすスキルは必須だろうが、AIが使えなくなるという万が一の事態も想定し、準備しておくべきだと思う。だがそれは結局のところ、AIをうまく使いこなすことにもつながってくる。AIの答えを黙って受けとるのと、さらに掘り下げた質問をするのとでは、まるで違った結果が出てくるからである。そしてそのためにも、ふだんからAI抜きで思考する習慣をつけておくべきだと思うのである。


