断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

古典教育は必要か? 

 何回かにわたって大学入試について書いてきたが、元々のきっかけは「東洋経済」誌の「古文・漢文不要論争」についての記事だった。高校で古文や漢文を学ぶ意味は果たしてあるのだろうか?記事はこの問いをめぐって、明星大学の勝又基氏へのインタビューをもとに構成されていた。
 「不要派」の主張は「古典を学んでも社会では役に立たない。」「学習の負担が重すぎる」 などというものである。こうした主張は、昨今の実用本位の風潮とも軌を一にしている。危機感を抱いた研究者や教育者たちが、2019年に「古典は本当に必要なのか」と題するシンポジウムを開催した。 シンポジウムの趣旨は「不要派の意見を徹底的に聞き、それに対する答えを真剣に考えよう」というものだった。
 そのシンポジウムで「不要派」は、三つの論点を挙げてきたという。第一に、仮に古典から学べるものがあるとしても、それは古典以外でも学べるのではないか?第二に、原文ではなくて現代語訳でも良いのではないか?第三に、はたして必修にする必要があるのか? 
 勝又氏の反論は、原文教育を廃止すれば、国民の大半が古典を読めなくなり、明治以前に書かれた膨大な日本語テキストが、読解不能のものとなってしまう、というものであった。個々の学生のためではなく、日本文化の継承という観点から、古典学習は必要だというのである。理にかなった主張だが、しかし文化の継承のために古典教育が必要というのは、実は「不要派」の人たちと同じ価値観に依拠しているともいえる。何かを学ぶ以上、何らかの形で役立つものでなければならぬという、功利主義的な価値観である。だからそれは、よく挙げられるもう一つの理由、「古典学習は教養のために必要だ」という主張を、微妙に裏切るものでもある。教養は実益を度外視したところから始まるものだからである。
 よく言われるように教養とは、知識や情報の量には還元できないものである。だがこのことは、単に消極的な定義であるだけでなく、積極的なことも教えてくれている。古典は現代の知識や情報、価値観を相対化してくれる。むろん古典を「今を生き抜く知恵」として読むのも、間違った読み方とは言えないが、そこにはさまざまな陥穽が潜んでいる。ところで同じことは、歴史についても当てはまるのである。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。人間性の真実や成功失敗の法則を歴史から学べということである。しかし「時代を超えた真理」を歴史から学んだつもりが、実は現代人の色眼鏡を通した情報に過ぎなかったというのは、ありがちなことであろう。
 歴史から普遍的な知や教訓を学ぶというのは、とても難しいのである。というのも歴史の教訓とは、学ぶ側の視野の広さや視点の高さに応じて開示されるものだからである。たとえば弱肉強食とか、金が全てとか、そういう価値観を信奉している人は、そうした視点からしか歴史を眺められないであろう。
 これに比べると、歴史のうちに「現代との相違」を看て取るのはずっと容易い。この場合、普遍的真理を学ぶというよりは、現代人の物の見方を相対化するために歴史を読むのである。(ここで「物の見方」といったのは、単なる知識や情報ではなくて無意識的な価値観、つまり私たちが知らず知らず使っている色眼鏡のことである。)
 話を古典教育に戻そう。「不要派」の人たちは、古典で学べる内容は古典以外でも学べるのではないかという。また原文でなく現代語訳で良いのではないかともいう。だがこうしたやり方では、たぶんかなりの確率で「偏った内容の教材」が作られてしまうだろう。つまり現代の生き方や価値観に合致した内容だけがピックアップされ、強調されてしまうと思うのである。そもそも「古典以外で古典と同じ内容を」とか、「現代語訳で済ませる」などという発想自体、実用本位のすこぶる現代的な考え方ではないだろうか。こんな発想から「古典が古典たるゆえん」を教えてくれる教材が生まれてくるとは、やはりちょっと考えにくいのである。

 

東洋経済」誌の記事リンク

「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

抵抗経験と実在性

 Kindleで『抵抗経験と実在性』という本(哲学の論文)を出しました。実在論と観念論の対立という、デカルト以来の西洋哲学の問題に取り組んだものです。カントの『純粋理性批判』に「観念論論駁」(Widerlegung des Idealismus)という有名な一節がありますが、『抵抗経験と実在性』は僕自身の「観念論論駁」です。

KDPの内容紹介
自我の同一性と身体の自己性、そして外界の実在性という三つは、相互にどのように連関しているのだろうか。ある種の精神疾患においてこれら三つが、しばしば同時に障害を示すのはなぜなのか。抵抗経験と実在性をめぐるディルタイの論考を批判的に検討しつつ、知覚における実在的=非表象的な層を考察し、自我と身体、知覚についての新たな理論を模索する。

目次
 現象性の命題と現象主義
 抵抗経験の理論
 インパルスと力
 視覚における抵抗経験
 実在性意識の変化
 自我・身体・外界

KDPのURL

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入試シーズンに思うこと(3)

 かれこれ10年も前になるが、小林秀雄の「鐔」 というエッセイが、センター試験に出題されたことがあった。ネット上では「並みの書き手ではない」と褒める人がいる一方で、「感情の赴くままに書かれている」、「非論理的で主観的」、「こんなもの出題するな」などといった否定的意見が多かった。
 小林秀雄の文章はそんなに非論理的で読みづらかったのだろうか。入試に出された「鐔」というエッセイから、中核的な部分を引いてみよう。


 鉄の地金に、鑿で文様を抜いた鐔を透鐔と言うが、この透というものが鐔の最初の化粧であり、彫や象嵌が発達しても、鐔の基本的な装飾たることを止めない。刀匠や甲冑師は、ただ地金を丸く薄く固く鍛えれば足りたのだが、いつの間にか、星だとか花だとか或は鎌だとか斧だとか、日常、誰にでも親しい物の形が、文様となって現れて来た。地金を鍛えている人が、そんな形を抜きたくなったのか、客の註文に応えたのか、そんな事は、決して分かる筈がないという処が面白い。もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。装飾は実用と手を握っている。透の美しさは、鐔の堅牢と軽快とを語り、これを保証しているところにある。様々な流派が出来て文様透がだんだん巧緻になっても、この基本の性質は失われない。又、この性質は、彫や象嵌の世界ででも、消極的にだが守られているのであり、彫でも象嵌でも、美しいと感ずるものは、必ず地金という素材の確かさを保証しているように思われる。戦がなくなり、地金の鍛えもどうでもよくなって来れば、鐔の装飾は、大地を奪われ、空疎な自由に転落する。名人芸も、これを救うに足りぬ。

 
 日本刀の鐔は、初めは実用本位であったが、鑿でくり抜いて文様が作られた。これが「透」である。透は実用性の延長上にあるが、しかしそのために「堅牢かつ軽快」という特質が最もよく表れている。そこには鐔の美の精髄とも言うべきものがある。装飾がさらに発達すれば、象嵌のような凝ったものになってゆくわけだが、しかしどれほど装飾化が進んでも、美しさの基本はこの透にある。 戦国時代が終わると実用上の要求は失われ、装飾本位の鐔が作られるようになるが、そうなるとかえって、鐔の美は失われてしまう。以上が引用箇所の論旨である。
 こうして見てみると、多少読みづらい文章ではあるけれど、決して非論理的とはいえない。むしろ論理の構造自体はがっちりしていると言ってよいほどだ。ただその進行が、ところどころ直線的でないだけである。
 実をいうと、こんな文章よりよほど非論理的な(つまり書き方がまずい)文章も、センター試験では出題されていたのである。ただしそれは小林秀雄より難しくない(論理の展開が緩い)から、さほど問題視されなかっただけである。
 問題はこの文章が、古文や漢文などと一緒に出されてしまったことだろう。時間配分を誤って、できる問題もできなかった学生がたくさんいたはずである。その意味でこの文章は出題すべきではなかったし、色々な意味で悪い結果を残してしまったと思う。


入試シーズンに思うこと(2)

 前回の記事で「文学テクストの意味は読み手の自由な解釈によって生み出されるものだ」とか「テクストの意味は読者の数だけある」などといった文学観が、文学についての偏見や悪しき先入観を生んだと書いた。このことについてもう少し書いてみたい気がするけれど、このテーマを論じるには、批評や文学の理論だけでなくもっと広範な哲学的問題、意味作用とは何か、伝達とは何か、語る主体とは何かという問題まで論じなければならない。
 僕の考えでは、この手の批評理論の最大の欠陥は、語り手をもっぱら論理的ないし形式的なレベルでとらえていて、語る主体の「実質的」な側面を度外視していることにある。平野啓一郎氏がどこかで、文学テクストの語りにおける「声の調子」に言及していた。これは形式的なものには還元できない実質的な何かであり、しかも語り手と作者とをいわば臍帯のようにつないでいる当のものなのである。この臍帯がある限り、「作者の死」(ロラン・バルト)は起こらない。少なくとも作者という項を完全に消し去ってしまうわけにはいかないのである。
 だがこの問題にはこれ以上深入りせず、もう少し別の面から、入試と文学テクストの問題について論じてみようと思う。

       ※

 何年か前の大学入試共通テストで、加能作次郎の「羽織と時計」という小説が出された。 
 作中の「私」は出版社で働いている。同僚のW君が病気で休職している時、「私」は何度か彼を訪れて、同僚から集めた見舞金を届ける。病気から回復したW君は、「私」にお礼として上等の羽織をプレゼントする。W君はその後、「私」が別の会社へ移る時にも、同僚を説得して送別祝いの懐中時計を「私」に送る。以下はその続きの場面である。 
 
 この処置について、社の同人の中には、内々不平を抱いたものもあったそうだ。まだ二年足らずしか居ないものに、記念品を送るなどということは曾て例のないことで、これはW君が、自分の病気の際に私が奔走して見舞金を贈ったので、その厚意に報いようとする個人的の感情から企てたことだといってW君を非難するものもあったそうだ。また中には、「あれはW君が自分が罷める時にも、そんな風なことをして貰いたいからだよ。」と卑しい邪推をして皮肉を言ったものもあったそうだ。 
 私は後でそんなことを耳にして非常に不快を感じた。そしてW君に対して気の毒でならなかった。そういう非難を受けてまでも(それはW君自身予想しなかったことであろうが)私の為に奔走してくれたW君の厚い情誼を思いやると、私は涙ぐましいほど感謝の念に打たれるのであった。それと同時に、その一種の恩恵に対して、常に或る重い圧迫を感ぜざるを得なかった。
 羽織と時計― 。私の身についたものの中で最も高価なものが、二つともW君から贈られたものだ。この意識が、今でも私の心に、なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情を起させるのである。
 
 さて設問(問3)は、「なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情」とはどういうことか、というものである。選択肢は以下の通り。
 
①W君が手を尽くして贈ってくれた品物は、いずれも自分には到底釣り合わないほど立派なものに思え、自分を厚遇しようとするW君の熱意を過剰なものに感じてとまどっている。
②W君の見繕ってくれた羽織はもちろん、自ら希望した時計にも実はさしたる必要を感じていなかったのに、W君がその贈り物をするために評判を落としたことを、申し訳なくももったいなくも感じている。
③W君が羽織を贈ってくれたことに味をしめ、続いて時計までも希望し、高価な品々をやすやすと手に入れてしまった欲の深さを恥じており、W君へ向けられた批判をそのまま自分にも向けられたものと受け取っている。
④立派な羽織と時計とによって一人前の体裁を取り繕うことができたものの、それらを自分の力では手に入れられなかったことを情けなく感じており、W君の厚意にも自分へ向けられた哀れみを感じ取っている。
⑤頼んだわけでもないのに自分のために奔走してくれるW君に対する周囲の批判を耳にするたびに、W君に対する申し訳なさを感じたが、同時にその厚意には見返りを期待する底意を察知している。
 
 正解は①であるが、これは消去法的にこれ以外は考えられないという選択肢であって、該当箇所を十全に説明しているかと言うと疑問である。たとえば「自分を厚遇しようとするW君の熱意を過剰なものに感じてとまどっている。」とあるが、施しの過剰さが「厚遇しようとする」意図によるものかどうかは、 問題文からは判断できない。(W君は単に人間として当たり前のことをやっているつもりだったかもしれない。)またそもそも、「とまどっている」という言葉が、はたして「一種の重苦しい感情」の説明となっているかどうかという、一番大きな問題がある。
 「なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情を起させる」というのは、過剰な恩に対する心理的圧迫感である。そのような恩は一種の負債のように感じられるからである。じっさい問題の箇所の少し後には、こんな記述がある。
 
 これがなかったなら、私はもっと素直な自由な気持になって、時々W君を訪れることも出来たであろうと、今になって思われる。何故というに、私はこの二個の物品を持って居るので、常にW君から恩恵的債務を負うて居るように感ぜられたからである。

 作者は、感謝と負債感情が交錯する複雑な心理を、「訳のわからぬ一種の重苦しい感情」と表現した。その「訳のわからぬ」ものを「分かる」ように、つまり入試問題の選択肢のように「とまどっている」という言葉を使って説明してしまうと、どうしても原文との間にズレが出てしまう。
 本当ならば読者は、テクストをそのまま読んで理解しないといけないのである。「言い換え」を行なってしまえば、どうしても原文との間にズレが生じてしまう。しかし入試現代文では、書き換えや説明が要求される。しかも本文を言い換えた内容が「正解」として示される。そのさい原文と言い換えとの間に生じたズレは、原理的に埋められない種類のものである。だから学生は、正解や解説を聞いた後も、何となくすっきりしない気持ちが残る。
 のみならず試験ではこの「言い換え」が「正解」として、つまり「作者が本当に言わんとしていたこと」として示される。そうなると本文の方は、この「本来的で論理的な内容」を「文学的な表現を使って言い換えたもの」とみなされかねない。そこまでいけば「文学の表現は非論理的である」という先入見までは、わずか半歩の距離であろう。学生が「なぜわざわざ非論理的な言い回しを使うのか?」と思ってしまってもおかしくないのである。

入試シーズンに思うこと

 ちょっと前に「東洋経済」の高校国語(古文と漢文)についての記事を読み、それについて少し書いてみようと思っていた。 折しも入試シーズンで、関連したいくつかの記事を読むうちに、俄然、大学受験についてブログ記事に書いてみたくなった。
 僕は以前、受験産業でアルバイトをしていたことがある。また受験生として、大学入試を受けた経験もある。今は受験産業にも高等学校にも関与していない全くの部外者だけれど、この機会に大学受験について思ってきたことを、ちょっとだけ書いてみようと思う。
 古文や漢文は不要だという意見があるらしい。勉強の負担が重い割に、社会に出てほとんど役立たないからである。だが同じことは他の科目についても言える。例えば日本史や世界史である。必修科目でないという点で、古文や漢文とは若干異なるが、しかしそれにしても不必要な暗記事項の多い科目ではある。
 むろん歴史を学べば、社会人としての基礎的な素養を身につけられる。これは大きな利点である。だがそのような素養ないし教養は、大学入試で要求される知識とはあまりにも乖離している。必要最低限の教養ならば、中学校の教科書レベルで十分だろう。
 歴史科目があんなに多くの知識を要求するのは、受験で必要だからである。受験生にとってばかりではない。受験生を選別する大学側にとっても必要である。 基礎知識だけで問題を作れば、点数に差がつかず、受験者を「落とすこと」ができなくなってしまう。
 だがテストがそもそも何のためにあるかといえば、学生に勉強させるためである。学校の定期試験もそうだけれど、学生はテストがなければ勉強なんてしない。大学入試だって同じである。入試がなければ学生は勉強せず、キャンパスは知識のない学生であふれてしまう。そうなれば大学の授業は成立しない。入試とは本来、そのためにあるものである。しかし学力さえあればどこの大学もフリーパスということになれば、一部のブランド大学だけに学生が押し寄せてしまうだろう。
 要するに大学入試には、もともと相容れないはずの二つの目的が介在している。一つは基礎的な学力を身につけさせるためであり、もう一つは入学者を限定するためである。後者は「必要悪」に過ぎない。しかし受験勉強の過度な負担は主に後者による。馬鹿馬鹿しい話だけれど、だからといって選別を止めるわけにはいかない。
 大学入試ではないが資格試験などでも、いわゆるひっかけ問題というのがある。これも「点差をつける」ことが目的である。一昔前の難解な英文読解なども、点差をつけるのが目的であった。今の英語入試では、短時間に大量の問題を解かせることで点差をつけようとしている。現代文の選択問題では、誰が見ても正解と分かるような選択肢は書かれない。そんなものはすぐに正解だとばれてしまうからである。だから正解の選択肢でも、微妙な瑕瑾が含まれていたりする。たとえば記述問題ならば多少減点されるかもしれないような文が、「正解」として用意されていたりするのである。
 何年か前に高校の国語(選択科目)が文学国語と論理国語という二つに分けられたことが大いに議論を呼んだ。誰しもすぐに気づくように、両者には価値の上下がつけられている。今の世の中で「論理的」であることは、疑いもなく一個の価値である。しかし文学国語とは「非論理的な日本語テクスト」であり、その限りでは価値の否定形なのである。むろん論理国語も「非文学的な日本語テクスト」なわけだが、今は「文学」はほとんど尊重されていないから、「非文学的」は価値の否定形とはいえない。
 しかしこのような文学の価値下落が生じたのは、これまでの入試現代文のあり方にも一因があると思う。入試現代文では「点差をつける」ために、あえて書き方に癖があったり文意がとりづらかったりする文章が選ばれることがある。そうした文章は「非論理的」な印象を与えずにはおかない。だから入試現代文で苦労した人たちは、批評とか文学とかいうものにあまりいい思い出を持っていないことが多いし、そうした人たちが、長じて難解な文学作品にチャレンジするとは考えにくい。またそのような人たちが、何かの巡り合わせで文科省に入り、かつて「非論理的」な文章を読まされた苦い経験から、国語教育の改革を行おうとした……などと考えてしまうのは、僕の邪推だろうか。
 むろん文学の価値下落には、もっと多くの複合的な原因がある。その一つとして挙げたいのは、「テクストの意味は読み手の自由な解釈によって生み出されるものだ」とか「テクストの意味は読者の数だけある」などといった文学観である。こうした考えは、批評家や文学研究者にとどまらず、すでに広く人口に膾炙しているけれど、これが文学というものについてどれほど偏見や悪い先入観を与えてきたか、よくよく考えてみる必要があると思う。