家山梅園へ行ってきた
最近は朝起きて窓を開けると、梅の香りを孕んだ空気が入ってきて、何かそれだけで幸福な気分になる。写真は先週末に訪れた大井川中流域の家山梅園。小高い丘の南斜面にある別天地のような場所です。
古典教育は必要か?
何回かにわたって大学入試について書いてきたが、元々のきっかけは「東洋経済」誌の「古文・漢文不要論争」についての記事だった。高校で古文や漢文を学ぶ意味は果たしてあるのだろうか?記事はこの問いをめぐって、明星大学の勝又基氏へのインタビューをもとに構成されていた。
「不要派」の主張は「古典を学んでも社会では役に立たない。」「学習の負担が重すぎる」 などというものである。こうした主張は、昨今の実用本位の風潮とも軌を一にしている。危機感を抱いた研究者や教育者たちが、2019年に「古典は本当に必要なのか」と題するシンポジウムを開催した。 シンポジウムの趣旨は「不要派の意見を徹底的に聞き、それに対する答えを真剣に考えよう」というものだった。
そのシンポジウムで「不要派」は、三つの論点を挙げてきたという。第一に、仮に古典から学べるものがあるとしても、それは古典以外でも学べるのではないか?第二に、原文ではなくて現代語訳でも良いのではないか?第三に、はたして必修にする必要があるのか?
勝又氏の反論は、原文教育を廃止すれば、国民の大半が古典を読めなくなり、明治以前に書かれた膨大な日本語テキストが、読解不能のものとなってしまう、というものであった。個々の学生のためではなく、日本文化の継承という観点から、古典学習は必要だというのである。理にかなった主張だが、しかし文化の継承のために古典教育が必要というのは、実は「不要派」の人たちと同じ価値観に依拠しているともいえる。何かを学ぶ以上、何らかの形で役立つものでなければならぬという、功利主義的な価値観である。だからそれは、よく挙げられるもう一つの理由、「古典学習は教養のために必要だ」という主張を、微妙に裏切るものでもある。教養は実益を度外視したところから始まるものだからである。
よく言われるように教養とは、知識や情報の量には還元できないものである。だがこのことは、単に消極的な定義であるだけでなく、積極的なことも教えてくれている。古典は現代の知識や情報、価値観を相対化してくれる。むろん古典を「今を生き抜く知恵」として読むのも、間違った読み方とは言えないが、そこにはさまざまな陥穽が潜んでいる。ところで同じことは、歴史についても当てはまるのである。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。人間性の真実や成功失敗の法則を歴史から学べということである。しかし「時代を超えた真理」を歴史から学んだつもりが、実は現代人の色眼鏡を通した情報に過ぎなかったというのは、ありがちなことであろう。
歴史から普遍的な知や教訓を学ぶというのは、とても難しいのである。というのも歴史の教訓とは、学ぶ側の視野の広さや視点の高さに応じて開示されるものだからである。たとえば弱肉強食とか、金が全てとか、そういう価値観を信奉している人は、そうした視点からしか歴史を眺められないであろう。
これに比べると、歴史のうちに「現代との相違」を看て取るのはずっと容易い。この場合、普遍的真理を学ぶというよりは、現代人の物の見方を相対化するために歴史を読むのである。(ここで「物の見方」といったのは、単なる知識や情報ではなくて無意識的な価値観、つまり私たちが知らず知らず使っている色眼鏡のことである。)
話を古典教育に戻そう。「不要派」の人たちは、古典で学べる内容は古典以外でも学べるのではないかという。また原文でなく現代語訳で良いのではないかともいう。だがこうしたやり方では、たぶんかなりの確率で「偏った内容の教材」が作られてしまうだろう。つまり現代の生き方や価値観に合致した内容だけがピックアップされ、強調されてしまうと思うのである。そもそも「古典以外で古典と同じ内容を」とか、「現代語訳で済ませる」などという発想自体、実用本位のすこぶる現代的な考え方ではないだろうか。こんな発想から「古典が古典たるゆえん」を教えてくれる教材が生まれてくるとは、やはりちょっと考えにくいのである。
「東洋経済」誌の記事リンク
「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
抵抗経験と実在性
目次
現象性の命題と現象主義
抵抗経験の理論
インパルスと力
視覚における抵抗経験
実在性意識の変化
自我・身体・外界
入試シーズンに思うこと(3)
小林秀雄の文章はそんなに非論理的で読みづらかったのだろうか。入試に出された「鐔」というエッセイから、中核的な部分を引いてみよう。
こうして見てみると、多少読みづらい文章ではあるけれど、決して非論理的とはいえない。むしろ論理の構造自体はがっちりしていると言ってよいほどだ。ただその進行が、ところどころ直線的でないだけである。
入試シーズンに思うこと(2)
入試シーズンに思うこと
僕は以前、受験産業でアルバイトをしていたことがある。また受験生として、大学入試を受けた経験もある。今は受験産業にも高等学校にも関与していない全くの部外者だけれど、この機会に大学受験について思ってきたことを、ちょっとだけ書いてみようと思う。
古文や漢文は不要だという意見があるらしい。勉強の負担が重い割に、社会に出てほとんど役立たないからである。だが同じことは他の科目についても言える。例えば日本史や世界史である。必修科目でないという点で、古文や漢文とは若干異なるが、しかしそれにしても不必要な暗記事項の多い科目ではある。
むろん歴史を学べば、社会人としての基礎的な素養を身につけられる。これは大きな利点である。だがそのような素養ないし教養は、大学入試で要求される知識とはあまりにも乖離している。必要最低限の教養ならば、中学校の教科書レベルで十分だろう。
歴史科目があんなに多くの知識を要求するのは、受験で必要だからである。受験生にとってばかりではない。受験生を選別する大学側にとっても必要である。 基礎知識だけで問題を作れば、点数に差がつかず、受験者を「落とすこと」ができなくなってしまう。
だがテストがそもそも何のためにあるかといえば、学生に勉強させるためである。学校の定期試験もそうだけれど、学生はテストがなければ勉強なんてしない。大学入試だって同じである。入試がなければ学生は勉強せず、キャンパスは知識のない学生であふれてしまう。そうなれば大学の授業は成立しない。入試とは本来、そのためにあるものである。しかし学力さえあればどこの大学もフリーパスということになれば、一部のブランド大学だけに学生が押し寄せてしまうだろう。
要するに大学入試には、もともと相容れないはずの二つの目的が介在している。一つは基礎的な学力を身につけさせるためであり、もう一つは入学者を限定するためである。後者は「必要悪」に過ぎない。しかし受験勉強の過度な負担は主に後者による。馬鹿馬鹿しい話だけれど、だからといって選別を止めるわけにはいかない。
大学入試ではないが資格試験などでも、いわゆるひっかけ問題というのがある。これも「点差をつける」ことが目的である。一昔前の難解な英文読解なども、点差をつけるのが目的であった。今の英語入試では、短時間に大量の問題を解かせることで点差をつけようとしている。現代文の選択問題では、誰が見ても正解と分かるような選択肢は書かれない。そんなものはすぐに正解だとばれてしまうからである。だから正解の選択肢でも、微妙な瑕瑾が含まれていたりする。たとえば記述問題ならば多少減点されるかもしれないような文が、「正解」として用意されていたりするのである。
何年か前に高校の国語(選択科目)が文学国語と論理国語という二つに分けられたことが大いに議論を呼んだ。誰しもすぐに気づくように、両者には価値の上下がつけられている。今の世の中で「論理的」であることは、疑いもなく一個の価値である。しかし文学国語とは「非論理的な日本語テクスト」であり、その限りでは価値の否定形なのである。むろん論理国語も「非文学的な日本語テクスト」なわけだが、今は「文学」はほとんど尊重されていないから、「非文学的」は価値の否定形とはいえない。
しかしこのような文学の価値下落が生じたのは、これまでの入試現代文のあり方にも一因があると思う。入試現代文では「点差をつける」ために、あえて書き方に癖があったり文意がとりづらかったりする文章が選ばれることがある。そうした文章は「非論理的」な印象を与えずにはおかない。だから入試現代文で苦労した人たちは、批評とか文学とかいうものにあまりいい思い出を持っていないことが多いし、そうした人たちが、長じて難解な文学作品にチャレンジするとは考えにくい。またそのような人たちが、何かの巡り合わせで文科省に入り、かつて「非論理的」な文章を読まされた苦い経験から、国語教育の改革を行おうとした……などと考えてしまうのは、僕の邪推だろうか。
むろん文学の価値下落には、もっと多くの複合的な原因がある。その一つとして挙げたいのは、「テクストの意味は読み手の自由な解釈によって生み出されるものだ」とか「テクストの意味は読者の数だけある」などといった文学観である。こうした考えは、批評家や文学研究者にとどまらず、すでに広く人口に膾炙しているけれど、これが文学というものについてどれほど偏見や悪い先入観を与えてきたか、よくよく考えてみる必要があると思う。