断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

入試シーズンに思うこと(2)

 前回の記事で「文学テクストの意味は読み手の自由な解釈によって生み出されるものだ」とか「テクストの意味は読者の数だけある」などといった文学観が、文学についての偏見や悪しき先入観を生んだと書いた。このことについてもう少し書いてみたい気がするけれど、このテーマを論じるには、批評や文学の理論だけでなくもっと広範な哲学的問題、意味作用とは何か、伝達とは何か、語る主体とは何かという問題まで論じなければならない。
 僕の考えでは、この手の批評理論の最大の欠陥は、語り手をもっぱら論理的ないし形式的なレベルでとらえていて、語る主体の「実質的」な側面を度外視していることにある。平野啓一郎氏がどこかで、文学テクストの語りにおける「声の調子」に言及していた。これは形式的なものには還元できない実質的な何かであり、しかも語り手と作者とをいわば臍帯のようにつないでいる当のものなのである。この臍帯がある限り、「作者の死」(ロラン・バルト)は起こらない。少なくとも作者という項を完全に消し去ってしまうわけにはいかないのである。
 だがこの問題にはこれ以上深入りせず、もう少し別の面から、入試と文学テクストの問題について論じてみようと思う。

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 何年か前の大学入試共通テストで、加能作次郎の「羽織と時計」という小説が出された。 
 作中の「私」は出版社で働いている。同僚のW君が病気で休職している時、「私」は何度か彼を訪れて、同僚から集めた見舞金を届ける。病気から回復したW君は、「私」にお礼として上等の羽織をプレゼントする。W君はその後、「私」が別の会社へ移る時にも、同僚を説得して送別祝いの懐中時計を「私」に送る。以下はその続きの場面である。 
 
 この処置について、社の同人の中には、内々不平を抱いたものもあったそうだ。まだ二年足らずしか居ないものに、記念品を送るなどということは曾て例のないことで、これはW君が、自分の病気の際に私が奔走して見舞金を贈ったので、その厚意に報いようとする個人的の感情から企てたことだといってW君を非難するものもあったそうだ。また中には、「あれはW君が自分が罷める時にも、そんな風なことをして貰いたいからだよ。」と卑しい邪推をして皮肉を言ったものもあったそうだ。 
 私は後でそんなことを耳にして非常に不快を感じた。そしてW君に対して気の毒でならなかった。そういう非難を受けてまでも(それはW君自身予想しなかったことであろうが)私の為に奔走してくれたW君の厚い情誼を思いやると、私は涙ぐましいほど感謝の念に打たれるのであった。それと同時に、その一種の恩恵に対して、常に或る重い圧迫を感ぜざるを得なかった。
 羽織と時計― 。私の身についたものの中で最も高価なものが、二つともW君から贈られたものだ。この意識が、今でも私の心に、なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情を起させるのである。
 
 さて設問(問3)は、「なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情」とはどういうことか、というものである。選択肢は以下の通り。
 
①W君が手を尽くして贈ってくれた品物は、いずれも自分には到底釣り合わないほど立派なものに思え、自分を厚遇しようとするW君の熱意を過剰なものに感じてとまどっている。
②W君の見繕ってくれた羽織はもちろん、自ら希望した時計にも実はさしたる必要を感じていなかったのに、W君がその贈り物をするために評判を落としたことを、申し訳なくももったいなくも感じている。
③W君が羽織を贈ってくれたことに味をしめ、続いて時計までも希望し、高価な品々をやすやすと手に入れてしまった欲の深さを恥じており、W君へ向けられた批判をそのまま自分にも向けられたものと受け取っている。
④立派な羽織と時計とによって一人前の体裁を取り繕うことができたものの、それらを自分の力では手に入れられなかったことを情けなく感じており、W君の厚意にも自分へ向けられた哀れみを感じ取っている。
⑤頼んだわけでもないのに自分のために奔走してくれるW君に対する周囲の批判を耳にするたびに、W君に対する申し訳なさを感じたが、同時にその厚意には見返りを期待する底意を察知している。
 
 正解は①であるが、これは消去法的にこれ以外は考えられないという選択肢であって、該当箇所を十全に説明しているかと言うと疑問である。たとえば「自分を厚遇しようとするW君の熱意を過剰なものに感じてとまどっている。」とあるが、施しの過剰さが「厚遇しようとする」意図によるものかどうかは、 問題文からは判断できない。(W君は単に人間として当たり前のことをやっているつもりだったかもしれない。)またそもそも、「とまどっている」という言葉が、はたして「一種の重苦しい感情」の説明となっているかどうかという、一番大きな問題がある。
 「なんだかやましいような気恥しいような、 訳のわからぬ一種の重苦しい感情を起させる」というのは、過剰な恩に対する心理的圧迫感である。そのような恩は一種の負債のように感じられるからである。じっさい問題の箇所の少し後には、こんな記述がある。
 
 これがなかったなら、私はもっと素直な自由な気持になって、時々W君を訪れることも出来たであろうと、今になって思われる。何故というに、私はこの二個の物品を持って居るので、常にW君から恩恵的債務を負うて居るように感ぜられたからである。

 作者は、感謝と負債感情が交錯する複雑な心理を、「訳のわからぬ一種の重苦しい感情」と表現した。その「訳のわからぬ」ものを「分かる」ように、つまり入試問題の選択肢のように「とまどっている」という言葉を使って説明してしまうと、どうしても原文との間にズレが出てしまう。
 本当ならば読者は、テクストをそのまま読んで理解しないといけないのである。「言い換え」を行なってしまえば、どうしても原文との間にズレが生じてしまう。しかし入試現代文では、書き換えや説明が要求される。しかも本文を言い換えた内容が「正解」として示される。そのさい原文と言い換えとの間に生じたズレは、原理的に埋められない種類のものである。だから学生は、正解や解説を聞いた後も、何となくすっきりしない気持ちが残る。
 のみならず試験ではこの「言い換え」が「正解」として、つまり「作者が本当に言わんとしていたこと」として示される。そうなると本文の方は、この「本来的で論理的な内容」を「文学的な表現を使って言い換えたもの」とみなされかねない。そこまでいけば「文学の表現は非論理的である」という先入見までは、わずか半歩の距離であろう。学生が「なぜわざわざ非論理的な言い回しを使うのか?」と思ってしまってもおかしくないのである。