断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

2015-01-01から1年間の記事一覧

ヘーゲルとニーチェ

ドゥルーズはそのニーチェ論の中で、へ―ゲル的な「否定」と対比させつつ、ニーチェ的な「肯定」を論じている。ドゥルーズのいう「肯定」は、私たちが「プラス思考」などというときの「ポジティヴ」とは異なるし、ヘーゲルの「否定」も「マイナス思考」などと…

昨夜の椿事と俳句の新作

昨夜の四時くらいのことである。不気味な地鳴りのような音に目を覚ました。 夢うつつのまま、はじめは自衛隊の戦闘機の音かと思ったが、鳴り続いて一向にやむ気配がない。ぼんやりと目を開けると、カーテン越しに窓の外が光っているのが見えた。雷かと思った…

近況

前回の記事を書いてから、ずいぶんサボってしまった。夏もすでに終わりが近づいている。いやむしろ季節はほとんど秋というべきであろう。昨日、川沿いの土手に彼岸花が咲き始めているのを発見して驚かされた。夜はベランダの下でコオロギが鳴いている。 この…

夕焼けの思い出

先週のことである。東京での仕事帰りに、夕暮れ時の街を一人ほっつき歩いていると、こちらにカメラを向けている若い西洋人の旅行者に出くわした。何かと思って振り返ると、ガードレールの橋梁のそばに、一人のホームレスが襤褸を敷いて横たわっている。折し…

自然美とその「発見」-俳句近作(2015年6月・その1)

すっかり夏らしくなってきた。朝、家を出て公園のそばの遊歩道をたどると、いたるところ夏の気配が充満している。休日には自転車で川沿いを走るのが習慣となった。晴れた日など、橋の欄干にもたれかかって遠い上流を眺めると、すっかり緑の濃くなった山々の…

俳句近作(2015年5月・その2)

海浜の靴あと白し弥生尽 しづしづと若草を踏む猫手かな 病み上がり息を切らして青田端 若菜積む黒木づくしの山家かな 前回掲載分に比べると、大分ぎこちなさが減ったように思えるのだが、どうだろうか。

俳句近作(2015年5月・その1)

前回、俳句を作ってから一年が経ってしまった。その間、一句も作っていない。ただの一句もである。俳句の会自体は継続しているが、こんな状態で続けてもダメである。もはやただの「不良会員」となりつつある。 以前にも少し書いたことだが、一番の問題はモチ…

「ガチ」はダメです

私は広島カープのファンである。最近はろくすっぽ試合も見ていなかったが、二年前にCS(クライマックスシリーズ)に出場して以来、再び応援しはじめている。そんなわけでファン歴は長いけれどにわかファンと大差はない。 ファンになったきっかけは、子供時分…

夢ーその象徴と表現

他人の見た夢を聞かされるというのは総じて退屈なことだが、論の前提として今しばらく付き合っていただきたい。 去年の夏の終わり頃、高校の同窓会があって久々に母校へ行ってきた。学校は山の上を切り開いて造成したところにあり、駅からの通学路は緑濃い谷…

小さな宴

後期の授業が終わった。成績提出の期限は一週間後くらいだが、複数の大学が重なってしまうと相当に忙しい。中には百人規模のクラスもあって、ほっと息をついている暇などない。それでもセメスターが終了した直後、どうにも息抜きがしたくなって浜松方面へ日…