断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

自然美とその「発見」-俳句近作(2015年6月・その1)

 すっかり夏らしくなってきた。朝、家を出て公園のそばの遊歩道をたどると、いたるところ夏の気配が充満している。休日には自転車で川沿いを走るのが習慣となった。晴れた日など、橋の欄干にもたれかかって遠い上流を眺めると、すっかり緑の濃くなった山々の上に、輝かしい乳色の光を孕んだ綿雲がわだかまっている。彼方の川筋は間断ない光の明滅を映しているが、こちらへ近づくにつれ、ゆくりない川面のざわめきをくっきりと示し、水底へ差しこむ陽光とたわむれながら、足下の柱の脇を迅速に走り去ってゆく。
 「自然」は私にとって大きな楽しみの一つだが、こうして細々ながら句作を続けているのも、一つにはそうした自然への愛好が、牢として自分の中に居座っているからである。そのせいもあってか、「自然美とはたかだか近代になって〈発見〉されたものに過ぎない」という類の言説には、いつも違和感を覚える。実際、江戸期の俳諧をひもとけば、和歌伝来の因襲的な美意識なぞとうに超越した自然観察が、いたるところに見出されるのである。
 たとえば私たちは、都会の人ごみから自然の中へ逃れると、ついぞ忘れていたような安らぎの感情を覚える。だが私の体験によれば、何日も都会を離れたのちに街の中へ戻っても、それとよく似た安らぎの感情を抱くものなのである。このこと一つ取っても、自然は単なる観照の対象とはいえない。そこには人間性のより深い層が露呈している。私たちが自然美を「発見」できたのは、自然美とは何かということをすでに予め非主題的に知っていたからであって、その逆ではない。
 前置きが長くなってしまった。今回の「俳句近作」である。


暮春とはいえど雲間の深きかな

暑春や猫ものびたり日陰石

愁ひげの羽の上げ下げ止まり蝶

老鶯もうるみがちなり朝の粥


 初回(前々回)の分は、とにかく投句をすることを優先させた急場しのぎの句ばかりだった。あれから一か月。今回は多少余裕をもって投句できそうである。