断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ヘーゲルとニーチェ

 ドゥルーズはそのニーチェ論の中で、へ―ゲル的な「否定」と対比させつつ、ニーチェ的な「肯定」を論じている。ドゥルーズのいう「肯定」は、私たちが「プラス思考」などというときの「ポジティヴ」とは異なるし、ヘーゲルの「否定」も「マイナス思考」などというときの「ネガティヴ」とは別のものである。しかし日常的な意味でプラス思考かマイナス思考かと言えば、ヘーゲルは「ポジティヴ」であり、ニーチェは「ネガティヴ」であろう。
 小林秀雄がこんなことを言っている。「たとえばデカルトには、何か近代人の及びもつかない単純性がある。明るくて、建設的なものがあり、陰気なものは影も形もないのです。けれども、現代の思想には、憂鬱なもの、皮肉なもの、裏に廻ってものを見るような態度、いわば女々しいものがあります。デカルトには実に男性的なものがあって、そこに私はひかれます。」
 デカルトは17世紀の人であった。ヘーゲルニーチェは19世紀の人間である。デカルトは近代哲学を創始し、ヘーゲルはそれを完成した。ニーチェはそれを破壊したと言われている。(ただしハイデガーのように、ニーチェを近代哲学の完成者と見なす立場もあるが。)『哲学原理』の単純さ(少なくとも見かけの上でのそれ)は、『エンチクロペディー』の複雑さとは似ても似つかないし、『方法序説』の「自分語り」は、『この人を見よ』のそれとは全く異質のものである。
 にもかかわらずヘーゲルには、小林秀雄デカルトに見たような「明るくて、建設的なもの」がある。ある意味それは、ヘーゲルの個人的資質によるのだろうが、やはり何といっても時代の空気というものが大きいと思う。たとえばゲーテの『親和力』(1809年発表)を読むと、ベートーヴェンシューベルトと同じ時代の息吹きが感じられるが、同じようにヘーゲルのテクストからも、どうかするとひとふしのシューベルトが聞こえてきたりするのである。
 これに対してニーチェの著作、たとえば『ツァラトゥストラ』などは、一見したところ「前向き」の思想を表明しているように見えるが、その背後には「憂鬱なもの、皮肉なもの、裏に廻ってものを見るような態度」が満ちていて、勇ましいことを言っているような箇所でさえ、どこか「女々しい」ナルシシズムの臭いがする。むろんニーチェ自身、そういう自己のデカダンな資質を自覚していて、その超克を哲学上の課題としていたわけであるが。
 ニーチェは四部構成の『ツァラトゥストラ』を、ベートーヴェンのシンフォニーになぞらえたりしたが、しかし何といっても彼は、ベートーヴェンよりはブラームスマーラーと同じ世代のデカダン人種に属しているのである。