断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況

 前回の記事を書いてから、ずいぶんサボってしまった。夏もすでに終わりが近づいている。いやむしろ季節はほとんど秋というべきであろう。昨日、川沿いの土手に彼岸花が咲き始めているのを発見して驚かされた。夜はベランダの下でコオロギが鳴いている。
 この夏は論文の仕事が入ってしまい、それが終わったのがお盆明けだった。それからしばらくは何もやる気が起こらず、あちこち小旅行をして回った。といっても近場がほとんどで、一番の遠出が明治村である。
 明治村は愛知県の犬山市にある。名古屋から名鉄犬山駅まで行き、そこからバスでさらに三十分。静岡から名古屋までは東京まで行くのとほとんど変わらないから、結構な距離である。訪れたのは初めてで、もっと人工的なアミューズメントパークのようなものを予想していたが、案に相違して広大な自然の中に建物が散在していた。
 園内には漱石と鴎外の旧居もあった。かつて静岡の羽鳥に中勘助の旧居を訪れたことがあるが、疎開中の住居ということもあって、三畳一間くらいの驚くべき狭さだった。盛岡で啄木の新婚時の住居を見たときも、ずいぶん狭い家だなと思った記憶がある。それに比べるとこの家は部屋がたくさんあってかなり大きい。猫の一匹や二匹、余裕で置いてやれるスペースである。
 家に上がってしばらく寝そべってきた。心地よい空間で、繊細な時間の肌理にしっとりと包み込まれているような気分だった。作家の原稿がワープロ書きになってから、文章の質そのものが変わったとはよく言われる(あるいはすでに誰も言わなくなっている)ことであるが、道具だけでなく執筆をする空間というものも、創作活動に如実に影響しているのではないだろうか。少なくとも現代のタワーマンションの一室で、漱石鴎外の文章が書かれるなど、ちょっと想像できないのである。
 縁側に松山市の俳句ポストというのが置いてあったので一句入れてきた。

入日まで山房借りぬ午睡かな

 むろん想像上の句である。(ちなみにこの住居自体も、いわゆる漱石山房とは別の代物である。)そういえば俳句の方もだいぶサボってしまった。ブログで大々的に宣言したまでは良かったものの、夏以降、すっかりご無沙汰してしまっている。秋からは少しずつ挽回していこう。
 帰りは再び犬山経由で名古屋に戻り、軽く食事をとって帰路についた。途中、豊橋で下車して街を歩いたら、十年以上前に訪れた書店がそのまま残っていた。ちょっと感慨深かったので文庫本を一冊買い、図に乗ってレジの女の子に「この店はいつからあるんですか?」と尋ねたら変な顔をされてしまった。