断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

夢ーその象徴と表現

 他人の見た夢を聞かされるというのは総じて退屈なことだが、論の前提として今しばらく付き合っていただきたい。
 去年の夏の終わり頃、高校の同窓会があって久々に母校へ行ってきた。学校は山の上を切り開いて造成したところにあり、駅からの通学路は緑濃い谷戸の中にある。最後には長くて急な上り坂が待っている。
 夢の中で私はこの通学路を歩いていた。学生時代、下校時にみんなと脇道へ入ったりしたが、夢の中で私も「ちょっと寄り道しようかな」などとつぶやいている。すると道端に制服を着た同級生が二人座っていて、今の私の独り言が聞こえたのか「物好きなやつ」というような視線を向けた。
 ところが、歩き慣れた通学路のはずなのに、いま自分がどこにいるのかさっぱり分からない。鮮やかな新緑の山並みがどこまでも続いていて、道はその中を果てしなく延びている。するうちに広い工事現場へ出た。作業中の一人を呼び止め、学校へはどうやって行けばいいのかと訊ねた。男は日に焼けた皺だらけの顔に笑みを浮かべながら「もうしばらく行ったら右に折れる道があるから、そこを曲がればいい。」と親切に教えてくれた。注意しながら歩いていくと、はたして右へ曲がる道が見つかった。だがそこも見たこともない道で、小砂利まじりの平坦な路面に、樹木が両側から覆いかぶさるように交叉している。本当にこの道でいいのか心許なかったが、構わずそちらへ足を踏み出した。とたんに夢は途切れ、目が覚めた。
 一見して分かるように、ここにはあからさまな象徴表現が満ち満ちていている。(たとえば「どこを歩いているのか分からない」とか「工事中」などというのは、今の私の人生の「比喩」以外の何ものでもない。)夢とは無意識の願望の象徴的表現だというのがフロイトのテーゼであるが、比喩も象徴もここまで露骨だとかえって謎めいてくる。比喩の意味するところが誰の目にも明らかだとしたら、なぜわざわざ比喩で表現せねばならぬのか、分からないからである。
 たとえば私がAという人物に対して抑圧された憎悪を抱いていたとしよう。私はAを憎んでいるが、その感情に意識レベルでは気づいていない。憎悪は抑圧され、無意識の領域に閉じ込められている。そのとき私が、Aとよく似たBという人物から不当な仕打ちを受け、激しく憤るという内容の夢を見たとしよう。それはAへの無意識の憎悪が、Bへの怒りというかたちで象徴的に表現されたと解釈できる。無意識の領域に閉じ込められた憎悪は、いわば迂回的に表現されたのである。が、仮に私がAへの憎悪を自分でもはっきり自覚していたとしたらどうだろう。そのような自覚的な憎悪を「象徴的」に回り道を使って表現することに、はたして何の意味があるだろうか。そればかりではない。私たちはときに夢の中で、自分が夢を見ているということを自覚しているようなケースもある。その場合夢の意味内容とは、抑圧されていないばかりか無意識的ですらないということになってしまう。
 考えられる答えの一つは、「象徴」は無意識的な感情の迂回路であるだけでなく、表現それ自体を目的としているというものである。これは芸術作品との類比において考えてみればよく分かることで、たとえばモナリザの微笑は「何か」を表現しているけれど、その「何か」とは、描かれた微笑以外の別のものでは表現できない「何か」である。「モナリザ」においては、内容がその表現と等価なのである。「表現それ自体を目的としている」というのは、まさにそのような意味においてであって、それはいわゆる芸術至上主義における「表現の自己目的化」などとは似て非なるものである。
 たとえば私が夢の中で見た「果てしなく続く鮮やかな新緑の山並み」の映像には、何か身を切るように切ない独特の感情価があった。その感情価は、多分そのような映像として表現されるほかない何ものかだったように思われる。
 夢が何らかの心的内容の「象徴的表現」なのは間違いない。だがそのような「表現」にも、おそらくは芸術作品と同じように巧拙があって、表現と内容が恣意的な結びつきしか持たないケースもあれば、両者の結びつきが必然性の相に置かれているようなケースもあるということだろう。後者の場合、夢は心的内容をいわば「それ自身として」表現する。そのとき夢は、心的内容の〈象徴的表現〉というよりは、〈表現的象徴〉というべきものになるのである。