断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

小さな宴

 後期の授業が終わった。成績提出の期限は一週間後くらいだが、複数の大学が重なってしまうと相当に忙しい。中には百人規模のクラスもあって、ほっと息をついている暇などない。それでもセメスターが終了した直後、どうにも息抜きがしたくなって浜松方面へ日帰りの旅行に行ってきた。
 掛川から天浜線に乗り換え、一時間ほど列車に揺られてフルーツパークという駅で降りる。その名の通りフルーツパークという植物園の玄関口で、施設へは歩いて10分ほどである。
 施設は道路をへだてて果樹園が広がる東エリアと、レストランや運動場、温室などが点在する西エリアとに分かれており、二つのエリアは一般道をまたぐ橋でつながっている。入り口脇の階段をのぼり、橋を渡って東エリアに入った。
 風は冷たいが、日差しはもうよほど強い。裸の枝越しに日がまともに照りつけ、枯草に覆われた大地が夢のように輝いている。冬の平日ということもあって客はまばらだった。広大な園地をいわば独り占めした格好だったが、気分は晴れなかった。やり残してきた仕事が絶えず心のどこかに引っかかっていた。採点とは別に研究上の課題なども控えていた。やはり羽を伸ばしてのんびりできるような状況ではなかったのだ。
 東エリアを一通り回ると、再び橋を渡って西エリアへ戻り、温室の熱帯植物園に入った。入り口にワインショップがあり、「酒」をめぐる著名人の言葉が、温室へと続く廊下の壁に掲げてある。ヘミングウェイオスカー・ワイルド、ココ・シャネル、マリリン・モンロー、それから夏目漱石太宰治村上春樹など。正確には覚えていないが、たとえばシャネルのこんな言葉。「私は二つの時にシャンパンを飲む。一つは恋をしている時であり、もう一つは恋をしていない時である。」あるいはマリリン・モンローのこんなセリフ。「男というものはワインに似ている。どちらも寝かせれば寝かせるほど味が出てくる。」そんな中に、誰の言葉だったか失念してしまったが、こんなものがあった。「幸福の秘訣とは、たえず小さな宴をもつことである。」
 フルーツパークを後にして天浜線の駅へ戻り、西鹿島駅で遠鉄に乗り換えて浜松へ出た。街を歩いて簡単に食事を済まし、電車で浜松を後にした。
 「幸福の秘訣とは、たえず小さな宴をもつことである。」この言葉の本当の意味が分かったのは、大井川の長い鉄橋を渡りながら、彼方の闇の中に浮かび上がる大井川橋の巨大なシルエットを眺めていたときである。「小さな宴」とはただの息抜きのことではない。それは日々の生活の「肯定」の形式なのだ。そのためにはしかし、日々の生活が肯定するに足るものでなければならない。ただ充実した生活だけが「小さな宴」に値する。そうでなかったら「宴」は、悩みや苦しみからの単なる逃避ということになってしまう。
 「小さな宴」は、肯定するに足る日々の生活を、いわばフィードバックするのである。それは日々の生活の充実度を増幅させる。そうして増幅された生活上の充実はさらなる「小さな宴」を要請し、それがまた生活の充実度に貢献する。「たえず小さな宴をもつ」というのはかかる弁証法的なプロセスであって、日々の労苦の一時的な中断とは似て非なるものである。その意味でそれは肯定に対する肯定、いわば幸福のなぞり書きのようなものであろう。
 私は大学を出てすぐ、会社勤めの生活をした。そのころはほとんど毎日のように「宴」をやっていた。しかし断じて「幸福」ではなかった。酔いつぶれて道端に倒れていたのを、たまたま通りかかった同僚たちが見つけ、一時間以上かけて寮へ運び込んだということもあった。こんな「宴」は幸福な人間のやることではない。
 自己逃避は苦しみを一時的に忘れさせてくれるが、結局はそれを増幅させる。この日の小旅行も、とどのつまりはそうした自己逃避の一種だったわけである。