断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

列車の旅、バスの旅(3)

 バスの車内空間は乗客が自由に行き来することができない。座席は座るために特化された場所であり、乗客は目的地まで、この狭い場所にとどまっていることを余儀なくされる。列車の空間はこれに比べるとずっと余裕がある。私たちは座席から立ち上がって車内を行き来し、トイレや洗面所を使うことができる。あるいは座席の上でパソコンを広げたり、ボックス席で小宴会を開くことも可能である。そこには居住性と呼べるものが(少なくとも最小限のそれが)存在している。
 そうした点で列車は、バスと船(客船)の中間に位置するといえるかもしれない。客船はそれ自体で立派な居住空間を持っている。豪華客船ともなればそこにコミュニティーと呼べるものが形成される。そしてそのようなコミュニティーは、船内が独立した居住空間であることに負うところが大きい。居住空間に人が集うと、無意識の交感作用とも呼ぶべきものが生じる。そのような交感作用ないしはコミュニティー性は、列車の空間にも(船よりはずっと希薄ではあるが)生じている。実際、同じ車内に乗り合わせた客には相互のマナーが要求されるが、それはコミュニティーの内部で要求される類のマナーであって、単なる公共道徳とは微妙に異なる種類のものである。
 たとえば私たちは、車内で携帯電話をかけてはいけないという「マナー」を共有している。それは車内での通話が物理的に迷惑であるという以上に、何とはなしに不愉快を感じるからである。私たちは、知人と話をしているときにたまたまその相手の携帯が鳴って目の前で話し出されたりすると、自分の存在を無視されたようで不愉快になる。一方、街中ですれ違う他人が携帯で通話していても大して気にしない。列車の車内空間はいわばこの二つの中間に位置するといえる。通話は、車内に生じているゆるやかなコミュニティー性を踏みにじる行為なのである。実際、乗客どうしの会話はさほど気にならないが、それはその会話がコミュニティーの内部で行われている行為だからであろう。
 列車に乗り込むということは、単に乗り物の内部へと空間的に移動することではない。それは日常生活とは異質のコミュニティーの内部へ足を踏み入れることなのである。プラットフォームから車両への移動は、それ自体、日常空間からの離別を意味している。旅は「目的地に着く前からすでに始まっている」のである。
 かくして列車の旅とは、二重の意味における日常生活からの離反である。一方ではそれは、現実の空間から表象の空間への移行を意味する。他方ではそれは、日常のコミュニティーから非日常のコミュニティーへの移動を意味する。この二つが交差して重なり合うところに、列車の旅の魅力は成立する。