断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ニーチェ『悦ばしき知識』より

 久々にニーチェの『悦ばしき知識』を通読している。短めのものからいくつか引いてみたい。


155.私たちに欠けているもの。― 私たちは「偉大な自然」を愛し、またそれを発見した。が、それは私たちの脳裏に「偉大なる人間」というものが欠落しているからである。ギリシャ人たちはその逆であった。彼らの自然感情は、私たちのそれとは別である。

183.最良の未来の音楽。― 私にとって第一級の音楽家とは、最も深い幸福の悲しみだけを知っていて、それ以外の悲しみは何も知らないというような者である。が、そのような音楽家は、いまだかつて存在したためしがない。

228.仲介する者に反対して。― 二人の断固たる思想家を仲介しようとする人間は凡庸である。彼には唯一無比のものを見る目が欠けている。類似化して見ること、同等化して見ること、これは貧弱な目の特徴である。

232.夢を見ること。― 私たちは興味深い夢を見るか、まったく夢を見ないかのいずれかである。目覚めているときも同様であるよう、私たちは学ぶべきだ。つまり興味深くあるか、まったく何物でもないかという風に。

235.精神と性格。― 自分の人間としての頂きに「性格」として到達する者がいる。が、彼の精神はその高みにふさわしくない。他方これとは反対の者もいる。

253.いつも家にいるということ。― ある日私たちは、自分の目標に到達する。そしてそのためにどれだけ長い旅路をたどってきたかを誇らしげに語る。が、本当のところ私たちは、自分が旅をしていたということに気づかずにきたのだ。旅路にあっても自分の家にいると思い込み、そうすることでここまでやって来られたのだ。  


 ニーチェには三つの要素がある。第一がモラリスト風の批評精神、第二が芸術家気質、そして第三が説教者の情熱である。『ツァラトストラ』が彼の代表作となったのは、これら三つの要素が十全に満たされたからであろう。また逆に、他の著作(たとえば『善悪の彼岸』)にときに見られる、一種不自然な自己韜晦の気配は、第三の要素を無理に抑圧しているからだと思われる。彼もまた、フィクションにおいてこそ最も自由に自己自身を語ることができたのであろう。