断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

図画の思い出

 絵を描くのは昔から苦手だった。それでも小学生のころは、野外に出て描くことが多かったから、それなりに楽しみもあったのだが、中学生になって静物画ばかり描かされるようになると、もはや苦痛以外の何物でもなくなった。
 私が絵に興味をもつようになったのは、大人になり、あちこちの美術展を訪れるようになってからである。たくさん見て、それなりに目も肥えてくると、今度は自分でも絵の真似事をしてみたくなる。これは漠然とした模倣欲というやつで、いわば子供がスポーツ選手を見てフォームを真似てみるようなものなのだが、一方また、子供の頃にそうした機会があればよかったのにとも思うのである。
 考えてみれば、小学校でも中学校でも、図画の時間は「よく見て描きなさい」の一点張りだった。むろん、いくらよく見たって、描けないものは描けない。逆に上手な子供は、何も言われなくてもすらすらと描く。つまりこれは、純粋に才能の有無の問題なのであって、教育の行き方としてはかなり問題のあるものではないだろうか。
 もちろん小学校の先生に、絵画の技術上の指導を要求するなど「ないものねだり」であろう。しかしそうならそうで、お手本(すぐれた絵)を横に置いて真似るというやり方もあるのではないだろうか。(実際、書道の時間ではそうしている。)それなら私のような人間でも、描くことの達成感というものをちょっとは味わえたかもしれないし、絵を見る楽しみだって、もっと早く覚えていたに違いない。
 そんなわけで図画の時間には、いい思い出がほとんどない。強いて挙げるならば、中学生のころに一度、抽象画が課題で出されたときにいい点をもらったことだろうか。いやもう一つ、忘れがたい思い出があった。
 小学三年の冬、信州の大町へ家族と親戚で温泉旅行に行った。雪の北アルプスを背景に、冬枯れの田園風景をのぞむ宿からの眺めが素晴らしく、新学期早々、図画の時間に絵に描いてみた。出来上がってみると、われながら情けない出来栄えである。それでも描いた絵は集められ、クラス全員の分がすぐに廊下に貼りだされた。
 それからしばらく経ったある日の休み時間、廊下で自作の前に立って腕組みをしていると、一人の級友が近づいてきた。しばし私の絵を眺めてから一言、
「下手だね。」
 そうつぶやくと私の顔をのぞきこみ、にやっと笑ってから一目散に廊下を走り去っていった。私の心の急所をグサっとやり、効果のほどを見届けてから、意気揚々と立ち去ったのであった。
 子供というのはじつに残酷な生き物である。