断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の俳句修行

 私は「りいの俳句会」という会に所属している。これは大学時代の恩師であり、職場の上司でもある檜山哲彦先生が主催されているもので、会員になると毎月、句誌に投稿することができる。五句を上限に投句し、その中から比較的出来の良いものが選ばれるのである。毎月欠かさず出すべきなのだが、なかなかそうは行かずにさぼってしまう。本当は月一度どころか毎日書かないとダメなくらいなのだが(俳句に限らず楽器でもスポーツでも継続的にやらないと上達しない)、そこまでモチベーションを保つことはできない。句会に出るという手もあるのだが、私は普段、静岡にいることが多い。月に一度、一万円の交通費はさすがにきつい。
 そんなわけで、修行というには程遠い私の俳句修行であるが、今回は、これまでに書いた自作の中からいくつかを選んで、簡単な自註をつけてみることにしたい。

 早梅や波打ち寄せる崖の上

 これは特別な技巧をこらしたわけではないそのままの句である

 雲一つゆるりと流す植田かな

 植田とは田植えがすんだばかりの田んぼのことである。植えられたばかりの苗は小さく、稲穂の緑よりは広々とした水面や水底の黒さが目立つ。その上を小さな雲がゆっくりと流れていくのである。

 名月を千々に早瀬の瀬音かな

 安倍川の支流に藁科川という川があって、一時期、その川沿いの羽鳥という集落に住んでいた。山と渓流に囲まれた風光明媚な土地で、夜にはよく川沿いの小道を散歩した。そのときの記憶をもとに作った句である。明るい月の光が早瀬に砕け散るさまと、夜の谷に響く盛んな水音を併わせ詠んだ。

 山の辺の遠田明るき小春かな

 これもそのままの句である。近所を流れる瀬戸川の谷で見た眺め。

 絶え絶えに川筋黒き時雨かな

 これは鳥瞰的な情景である。時雨でガスのたちこめる谷の底を、ところどころ見え隠れする川筋が、暗い空を映しているという、水墨画のような風景を詠んだもの。

 冬立ちて野をしかと踏む朝日かな

 初冬の朝の情景。冬の朝日は淡く弱々しいが、どこか凛としたところがあってすがすがしい。「野をしかと踏む」というのはそうした気分を表現したものである。
 さてここまで書いてきて実感したのは、自作の句をブログでさらすというのは、予想以上に冷や汗ものだということである。実はこれ以外にも、もっとできの悪い作品を出し、自己批評を加えてみるつもりだったのだが、さすがそれは割愛することにしたい。