断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

映画『アマデウス』

 オスカー・ワイルドをめぐるジードの回想録に、こんな話が出てくる。
 ワイルドは当時、イギリスではご法度だった男色を実行していた。その筋の若者を集めてクラブを結成し、指輪を交換して結婚式を挙げ、しかもそのことを方々に吹聴して回っていた。
 ジードの友人であり、ワイルドとも交友関係にあったピエール・ルイスは、ワイルドに直談判をして行状を改めるよう迫った。話し合いは決裂し、憤激冷めやらぬ様子で戻ってきたルイスは、当日の様子をジードに報告した。ワイルドは彼にこう言ったそうである。「君は僕のことを友人だと思っていたらしいが、僕は実は恋人しか持たないんだよ。さようなら。」
 それから何年か経って、ジードがワイルドにその話をしたところ、意外にも彼はこう答えたそうである。「君、最悪の嘘とは、最も真実に近い嘘のことなのだ。あのとき、僕は彼にこう言ったのだ。『さようなら、ピエール・ルイス。僕は今日、一人の友人を失ってしまった。今後はもう恋人しか残らないだろう。』」
 私の考えでは、映画『アマデウス』に描かれたモーツァルト像は「最も真実に近い嘘」、すなわち「最悪の嘘」なのである。あそこに描かれていたモーツァルト像(自由闊達だがおよそ品位を欠いた天才の肖像)は、十九世紀的な神格化されたモーツァルト像とは正反対のものに見えるが、天才に関するある種のステレオタイプを具現しているという点で瓜二つである。しかも現代人の好尚に無意識に媚びていてたちが悪い。
 なるほど姉のナンネルは、モーツァルトが「いくつになっても子供だった」と報告している。しかし自由闊達であることと子供であることは似て非なるものである。父レオポルトの友人は、モーツァルトのことを「非活動的で押しが弱い」と評しているし、レオポルト自身も同様の意見を述べている。おそらく彼の「子供らしさ」はある種の精神的な未熟さであって、それが世間や人間に対する積極性やバランス感覚の欠如というかたちであらわれていたのである。彼の音楽の繊細さは、最も深い意味での内向性に裏打ちされているが、それは子供の物怖じの感覚とほとんどすれすれのものである。
 むろんモーツァルトの音楽の「悲しみ」についてはこれまでもさんざん言われてきたことであるし、いまさら『アマデウス』でもなかろうと思われる向きもあるかもしれないが、わざわざ私がこんなことを書いたのは、何日か前にシューマン室内楽ピアノ三重奏曲第一番)を聴いて、かねて感じていた二人の音楽家の精神的類縁関係を、あらためて考えさせられたからなのである。