断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

清水現代アート研究会(2)(ダリの『記憶の固執』)


『記憶の固執』はいうまでもなくダリの代表作で、あのぐにゃりと曲がった時計が、不思議に静謐な海辺の光景に配されている絵である。この作品のテーマが「時間」であるのは明らかだが、実はこうした言い方はかなり曖昧である。またここでは時間の「流れ」は止まっていても、時間そのものは不在ではない。
 絵画における「時間」とは何だろうか。そこでは「時間」と「空間」は どのように結びついているのだろうか。
 遠近法によって描かれた奥行きをともなう三次元空間は、実はそれ自体で「時間」に関する直観を含んでいる。なぜならば三次元空間は、「物体の移動」についての表象を(潜在的に)含み、移動の表象はまた、時間についての直観を伴うものだからである。
 こうした意見に対しては、「二次元平面上での点や線の移動もあるではないか」という反論が返ってくるかもしれない。しかし二次元平面上での点や線の移動は、純粋に観念的な表象である。それは現実の外界には存在しない。一方の三次元空間における物体移動は、身体の移動と同じ次元にあり、私たちが経験する現実の時間感覚と地続きのものである。三次元空間が「時間」についての直観を含むというのはそういうことである。
 だが、一言で三次元空間といっても、実際にはさまざまな種類がある。そこにはたとえば3Dアートのような抽象的空間から、私たちが住む現実の空間にいたるまで、さまざまの種別がある。ここで仮に、一方の極に3Dアート的な抽象的な空間を置き、他方の極に現実世界の具体的な空間を置くとしたら、十九世紀以前の遠近法的な絵画は、二つの極の間に、抽象性と具体性、主観性と客観性のさまざまな度合いに応じて配置されるに違いない。またこのような観点から新たな美術史を書くことも可能かもしれない。
 従来の美術史においては、線遠近法の瓦解という事態は、二十世紀絵画のさまざまな空間表現(たとえばキュビズムや抽象画など)と結びつけて論じられることが多かった。だがこれを「時間」の観点から見るならば、次のように考えることもできる。すなわち十九世紀以前の絵画の「時間」は、三次元空間の空間性と結びついた形で存在していたが、二十世紀に入ると画家たちによって多様な時間表現が試みられるようになったと。
 この点ダリの絵画の「時間」は、従来の三次元内在的なものと同種である。しかし彼の絵画空間は極度に主観的なものであり、それに応じてその「時間」も主観的かつ抽象的なものとなっている。
 このように考えると、『記憶の固執』には「時間」が二重の仕方で表現されていることが分かるのである。一つは「日常的な時間の不在」というテーマ(ぐにゃりと曲がった時計によって象徴的に表現されているもの)であり、もう一つは絵画空間そのものに内在する主観的かつ抽象的な「時間」である。この二つが単に並存しているのではなく、内的に響き合い呼応し合っているところに『記憶の固執』という作品の生命がある。しかし同時にその「時間」(後者の意味での「時間」)は、ダリ作品一般に共通するものである。つまり他のダリ絵画に共通する形で非主題的に表現されているものが、主題的にも表現されたのが『記憶の固執』なのであって、その意味でもこの作品は、ダリの代表作の名にふさわしいものなのである。