断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

プレ夏休み(東京国立博物館「和様の書」展)

 前期の授業が終わった。二ヶ月間の夏休みの始まりである。研究者は一種の個人事業主で、授業は「オフ」でも本当の意味での「休み」とはいえないのだが、それでも二ヶ月間、自分だけの自由な時間が得られるのはありがたい。
 ところで大学のセメスターは、学校ごとに期間が異なっている。私の勤めている二つの大学(東京芸大東海大)も授業終了の時期が違う。芸大のほうは、実技試験との兼ね合いもあって、語学教師は早々にお役御免となる。今年は7月17日が最終日だった。この時点で東海大学のほうはまだ授業が続いていたが、ともかくもほっと一息つけた。「プレ夏休み突入」といった気分である。
 最終日の授業が終わるとその足で、東京国立博物館へ向かった。開催中の「和様の書」展を見るためである。古代から江戸初期にいたる膨大な書が出されていたが、質量ともに素晴らしく充実した展示で、もっと時間のあるときに来るべきだったとほぞを噛んだ。閉館時間を気にしながらまずは一通り見て回り、さしあたり古筆の展示から見ていくことにした。
 古筆とは、主に平安期から鎌倉期の仮名書きの書を指す。時代的にも様式的にもかなりの幅があるが、今回は名高い高野切が出品されていた。高野切とは11世紀に成立した現存最古の古今集の写本である。三人の作者の手によるものと推定され、第一種、第二種、第三種と分類されている。人によって好みは分かれるだろうが、私自身は第一種が好きである。
 仮名は漢字をもとに、日本語の発音に合う文字体系として、ほとんど自然発生的に形成されたが、平仮名と片仮名とでは大きくその性質が異なる。片仮名は漢字の一部を転用したもので、もともと実用本位の記号(漢文訓読の補助)だったから、初期の異体字はすみやかに淘汰され、現在あるような文字体系へ統一された。逆に平仮名は時代が下るにつれて異体字が増え、平安末期にその頂点に達した。平仮名はもともと漢字の草書体をさらに崩して作ったものだから、実用面のみならず美的表現(つまり「書」)の対象でもあった。「美」のためには表現手段が多いほど有利である。実用本位の片仮名が、無駄な異体字を切り捨てていったのとは対照的に、平仮名のほうはますます表現面での多様性を追求していった。新しい文字のかたちは、平安期を通じてゆっくりと醸成されていったわけだが、同時にそれは、新しい美が作られてゆく過程でもあったのである。「文字」に「美」が付け加わったのではない。「文字という美」が作り出されていったのである。
 高野切第一種の魅力は、優雅端麗な筆致の中にひそむ一種独特の緊張感だが、私見ではそれは、文字創成期に固有の、生成のダイナミズムなのである。一見したところそれは、完成された美のかたちを示しているように見えるが、実際にそこにあるのは、美的な生成のプロセスである。だからそこには、何か微妙なためらいのようなものがひそんでいる。誤解を怖れずにいえば、一種のぎこちなさのようなものさえ認められる。その意味でそれは、後代の御家流のような定型化された美とは対蹠的な存在だが、同時に定型からの逸脱による個性美(たとえば寛永の三筆)とも似て非なるものである。「和様の書」の歴史において、古筆が抜きん出た存在であるゆえんであろう。