断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その3

 「忘れえぬ人々」で描かれているのも、これと同じ種類の詩趣である。「その時油然として僕の心に浮かんでくるのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景のうちに立つこれらの人々である。」
 ところで俳諧的な詩意識は、しばしば自然と人事の交点において成立する。「武蔵野」や「忘れえぬ人々」の独歩の感性は、伝来の俳諧的感性と非常に近い位置にあるのである。先に私は加舎白雄の句と独歩の作品の類似を示しつつ、両者の近縁関係が単に表面的なものではないと述べたのは、この間の事情を示唆したものである。
 もちろん独歩の内にあったのはそれだけではない。「武蔵野」の中でもツルゲーネフの直接的な影響を告白しているように、かねて独歩は西洋文学仕込みの繊細な自然観察眼を涵養していた。たとえば「武蔵野」の次のような箇所。


 空は蒸暑い雲が湧きいでて、雲の奥に雲が隠れ、くもと雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差、任放、錯雑のありさまとなし、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。


 俳諧的な感性と西洋文学由来の自然観察眼。だがこの二つは独歩の中で互いに無関係に同居していたわけではない。
 俳諧文芸の生命は(少なくともその一端は)「俗」の中に「詩」を見出すことにある。出来合いの「雅」を反復するのでもなく、「俗」を「俗」のままに示すのでもなく、「俗」すなわち日常の見慣れた光景を「異化」することを通じて、そのつど新しい「美」を開示すること。蕪村の言葉を借りるならば「俗語を用ゐて俗を離るる」こと。俳諧文芸はこの点で、西洋文学の方法とも通じ合うのである。
 最後に一つ付け加えておくと、「異化」が作品そのものの主題となっているのが「牛肉と馬鈴薯」である。作中、主人公岡本誠夫はこう叫ぶ。「むしろこのつかい古した葡萄のような眼球をえぐりだしたいのが僕の願いです!」「すなわち僕の願いは(中略)どうにかしてこの古びはてた習慣(カスタム)の圧力から脱がれて、驚異の念をもってこの宇宙に俯仰介立したいのです。」