断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その2

 「武蔵野」で独歩はこう記している。


(前略)市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場所を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹くだろうか自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でもみるような思いをなさしむるからであろう。(中略)小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。


 「小さな物語」といい、「社会というものの縮図」と呼んでいるが、これは小説的な意味の「人間ドラマ」ではない。そのことは、続けて列挙されている例を読むとよく分かる。


 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分らぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子に映っている。外は夕闇がこめて、煙の匂いとも土の匂いともわかちがたき香りが淀んでいる。(中略)見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事かをひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事かを笑った。月が家並の後ろの高い樫の梢まで昇ると、向う片側の家根が白ろんできた。
 


 「一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場所」が独歩のうちに喚び起こすのは、小説的なドラマでもなければ、社会や人間を離れた純粋な自然美でもない。それは人事の中に見出された自然、自然の中に見出された人事、両者の交感の内にたまゆらの幻のように浮かび上がる「詩」なのである。「武蔵野」で独歩が繰り返し描いたのは、そのような自然と生活の汽水地帯の詩的風景にほかならなかった。