断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説7(国木田独歩「忘れえぬ人々」)その1

 「忘れえぬ人々」の舞台は溝口である。今は東急田園都市線南武線の交差する繁華な土地だが、当時は草深い場所だったらしく、小説の冒頭で、冬の夕暮れの陰鬱な茅屋根風景が描かれている。
 その地の亀屋という旅宿でたまたま同宿した二人の青年、無名の小説家大津弁二郎と無名の画家秋山松之助が、夜を徹して語り合う。大津は秋山に、自分の小説のプランを語って聞かせる。世の中には親とか友人知己とかいった「忘れては叶うまじき」相手がいる。しかしそれとは別に、通りすがりの赤の他人でありながら、なぜか忘れることができないという人もいる。大津が描こうとしているのはそのような人たちである。


 夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑沓は非常なものであった。(中略)するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。(中略)僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端の揃わない、しかもせわしそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。


 琵琶僧は大津の「忘れえぬ人々」の一人だが、私はこの場面を読むたびに、天明期の俳人、加舎白雄の次のような句を思い起こす。

 
木枯や市に業(たづき)の琴をきく


 片や晴れやかな夏の朝の市場。片や寒風吹きすさぶ師走の市の風景。季節も情趣もまるで異なるものの、ここには物語的情景としての類似があるわけだが、しかしそれだけではない。両者の間にはより深い内的な近縁関係が存在しているのである。