断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

記憶をめぐる断想

 連日の猛暑で、四国の四万十市では記録的な気温を計上したようである。清流四万十川が流れる四万十市が、なぜ日本列島でも指折りの高温を記録するのか?新聞記事にこう解説されていた。四万十市の測候所は江川崎という場所にある。そこは四囲を千メートル級の山に囲まれた盆地で、熱い空気が滞留しやすい。そうした地理的特殊性が記録的な猛暑を誘因しているというのである。
 この江川崎という町だが、実は私も学生時代に訪れたことがある。ちょうど三月の終わりで、青春18切符を使って夜行で関西まで行き、瀬戸大橋を渡って吉野川沿いに高知市へ出、さらにそこから土佐中村、足摺岬を回って、予土線四万十川沿いを走っていった。江川崎はちょうど予土線四万十川が離れる地点で、予土線はここから一路北上して宇和島方面を目指し、四万十川は別の支流と合流して大河の趣きを加えつつ、ゆっくりと山中を南下していく。テレビなどで紹介される「四万十川の風景」は、だいたいがこれより下流のものである。
 さて江川崎で列車を降りた私は、駅前で自転車を借りて四万十川沿いの道を下り、途中、川原に下りて一泳ぎした。南国土佐とはいえ三月の川はまだ寒かったが、半分は酔狂、半分は土産話(というか自慢話)目的であった。
 今、この江川崎という名前をほとんど十数年ぶりに目にして、懐かしい気分でウェブ上の画像を検索してみた。案の定、たくさんの写真がヒットした。大半が江川崎の駅舎か四万十川の眺めである。四万十川はともかく駅の光景は記憶からすっぽりと抜け落ちている。以前ここを訪れたという実感がまるでない。それでも画像を見ていくと、一枚、妙に心に引っかかる写真があった。
 それは誰もいない江川崎のプラットフォームを写したものだった。穏やかな春の日差しが降りそそぐ中、周囲には若草が萌えそめている。空には小さな雲片が浮かび、線路の脇には七分咲きの桜が枝を伸ばしている。のどかな春の風景。しかし特定の何かが記憶の中に残っているわけではない。なぜこの写真が心に引っかかるのか。
 あの日たしかに私はこの駅で下車し、自転車を借りて菜の花畑の脇を抜け、春先の光と風を浴びて川沿いの道を走ったはずなのだが、そのとき目にした客観的な情報(見たり聞いたりしたもの)はあらかた失われ、主観的な情報(そのとき味わった気分)が、かすかに心の片隅に残っているきりだった。しかもそれさえもすでに具体的な内容を失い、何か「春先の気分一般」とでもいったものへ解消されてしまっていた。写真は記憶の具体相ではなく、その一般相において、私の思い出と交差したのである。

                                      
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 それはあの震災が起こる半年前、2010年の夏のことだった。八月から二ヶ月間、ドイツに滞在することになっていた私は、その直前の数日間、ホテルを転々としながら千葉や茨城のあたりを回っていた。今でもはっきりと憶えているのは、水戸にほど近い常磐線の駅の光景である。真新しい駅舎を出ると、小さな駅前広場があった。通りからちょっと入った場所に古びたビジネスホテルがあるが、廃墟のようにひっそりとしており、営業しているかどうかも分からない。そのほかには何もない。コンビニ一つ見当たらない。がらんとした通りには人っ子一人おらず、ただ真夏の陽光がさんさんと降りそそいでいる。ジョルジョ・デ・キリコの絵に出てきそうな虚無の風景。…私の記憶はそこで途切れる。
 いま私は「私の記憶」といった。が、実際に私が見たのは、おそらくこれとは別のものだったのである。というのも、この風景が私の脳裏にしきりに浮かぶようになったのは、実にあの震災以降のことだからである。震災後、何かで見た原発近くの無人の街の光景は、私の心に強烈な印象を与えたが、いつしかそれは私の心の中で、あの真夏の駅前風景と重なり出し、私自身の内部の虚無を映す内的光景のごときものへと変容したらしかった。むろんそうした変容には、それなりの前提条件が必要に違いない。たとえば当時私が抱えていたさまざまな悩みとか、出国を前にした不安や孤独感とか。そうしたさまざまな主観的な要素の中から、その基調ともいえる「虚無」の気分が抽出され、抽出されたその気分が震災のショックによって前景化し、前景化した主観的なものが今度は客観へと逆流し、やがて客観そのものを変造し、ついにはもう一つの新しい「記憶」、もはや記憶とは呼べない記憶を作り上げたのに違いなかった。