断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

大井川の晩夏

 いま僕は、大井川の河川敷にある大きな樹の下にいる。河川敷は幅が一キロもあり、しかも視界が数キロ先の上流まで開けているから、まるで広大な平原にいるようだ。川面ははるか遠くに見え隠れするばかりで、あとは一面の草の原である。ところどころに生えた樹木が、まるでサバンナの孤樹のように大きく枝を張っている。人影は見当たらない。時々通りすぎる車のほかは、強い川風と盛んな蝉時雨の音だけが、辺りを宰領している。
 残暑の厳しい日差しが照りつけているが、空はすでに秋めいた明るい色をしている。だが湿気は強く、地平線近くは霞がかっている。
 ふと僕は、現実ではなくて記憶の光景の中にいるような気がした。子供のころは「夏」は一つの均質な季節だった。(夏休みが始まるときのわくわくする気分と、終わるときの憂鬱な気分との対比はあったけれども。)だが年とともに、季節の微妙な移ろいが記憶に蓄積され、目前の風景にもそれを読み取るようになった。夏はもはや均質な一季ではなく、日一日と秋の気配に浸潤されてゆく存在となった。
 遠い屏風のような山並みに、夏の名残の入道雲が無数に湧き、午後の強い日を受けて燃えるように輝いている。それは季節の終焉の巨大な象徴図のようでもあれば、やがて来る季節への明るい希望を湛えているようでもあった。これまで体験してきた無数の晩夏を純化抽象し、一つの濃厚な主観的印象にまで凝縮したもの、いわば記憶における理念的な層とでもいうべきものであった。(この記事は2022年10月に改稿しました。)