断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ベズイデンホウトのモーツァルト

 少し前のことになるが、片山杜秀氏の「クラシックの迷宮」という番組(NHKFM)で、ベズイデンホウトのフォルテピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲第17番(第三楽章)が紹介されていた。これが実に素晴らしい演奏で、ラジオに向かって思わず拍手喝采したくなるような名演だった。
 フォルテピアノとは、現代のいわゆるモダンピアノの前身に当たる楽器で、チェンバロとモダンピアノの間に位置する過渡的な存在である。主に18世紀の後半に使用されたが、これはモーツァルトの活躍した時期(生れたのは1756年で没したのは91年)とほぼ重なる。つまり彼のピアノ作品は、フォルテピアノによる演奏を念頭に書かれているのだが、実際には、ロマン派以降現代にいたるまで、もっぱらモダンピアノによって演奏されていた。フォルテピアノの復活は近年の古楽器復興と軌を一にしたものである
 フォルテピアノはモダンピアノとは響きがかなり違う。それはチェンバロの細い金属質な音色とは趣きを異にするが、モダンピアノの深く豊かな響きにも程遠い。どちらかというと扁平な音色、たとえて言えば「ピアノのおもちゃ」のような音である。だからモダンピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲を聴くと、どこか音が過剰であるという印象を受ける。元々フォルテピアノによる演奏を想定して書かれているから当然のことなのだが、それではモーツァルトの演奏をすべてフォルテピアノでやればいいかというと、それはそれで問題が残る。第一に奏者の問題がある。第二に聴き手の好みの問題がある。第三に個々の曲との相性の問題がある(これについては後述)。第四に古楽器は現代の楽器よりも音程が低い。古楽器演奏でモーツァルトを聴くと、これこそ作曲者によって想定されていた音程ではないかという気がするのだが、一方で長年聴き慣れたモダン楽器の音が耳に残っているから、違和感が拭えない。
 そうした問題はさておくとしても、ベズイデンホウトの演奏は素晴らしかった。フォルテピアノはモダンピアノよりもずっとタッチが軽く(一説によるとキーを叩くのに要する力は二分の一以下)、響きの深さに欠ける半面、軽快な演奏が可能である。ベズイデンホウトはそうした特性を十二分に活用していて、しかもそれがこの曲の曲想にいかにもマッチしていた。
 番組ではもう一つ、ピアノ協奏曲の第22番も流された。ベズイデンホウトはここでも色々と工夫をこらしていたが、17番よりは劣って聞こえた。これには色々と原因があるだろうが、理由の一つとして、作品そのものの響きがよりシンフォニックで、フォルテピアノだと少々物足りないという点が挙げられると思う。これは他の二十番台の作品(すべてではないが)についても言えることで、たとえば第25番のような雄大な響きをもつ作品には、フォルテピアノではどうにも役不足という感じがする。逆に十番台の作品、とりわけ11番や12番のような室内楽的な作品にはフォルテピアノはうってつけである。作曲家というものは、演奏に用いられる楽器を念頭に制作を行うから、楽器のメカニズムの変更は創作内容にも影響を与える。しかし一方で、音楽史の趨勢が楽器の「あるべき未来」を示唆するという面もあるはずである。モダンピアノの楽器形態が完成したのはようやく十九世紀半ばだったが、それに先立つ形で音楽史上に、モーツァルトからベートーヴェンを経てロマン派にいたる急速な展開があった。ピアノという楽器の発展は、ある意味ではそれを後追いしたとも言える。モーツァルトの後期のピアノ協奏曲が、すでにモダンピアノの響きを予見しつつあったとしてもおかしくないのである。