断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

花火の美学

 八月も半ばになろうとするある日、天竜方面へ日帰り旅行をしてきた。浜松経由で遠鉄の電車とバスを乗り継ぎ、水窪からJRの特急に乗って天竜峡へ向かった。天竜峡駅に降り立ったのが昼の十二時半。自宅を出てからすでに五時間が過ぎている。ここは川下りで有名な観光地で、そのせいか山間なのに開けた雰囲気だ。だが今日の目的地はここではない。飯田線水窪駅天竜峡駅の間には、いわゆる秘境駅が連続しており、ハイシーズンには観光列車も走っていると聞いて、訪ねてみようと思ったのである。
 天竜峡駅に着くとすぐに下りの普通列車に乗り換え、今しがた来た水窪方面へと戻っていった。来るときは特急だったのでよく分からなかったが、なるほど、人家もないような山中に無人駅が点在している。停車のたびに僕はドアを開け(扉は手動で開閉する)、ときにホームへ降り立った。たしかに周囲は何もない山の駅だが、整備された構造物がほとんどで、よく行く大井川鉄道のほうがよほど趣きがある。あちらはJRと違って金がないから、随所に古い木造駅舎が残っているのである。
 ピストンコースで再び浜松駅に戻ってくると、すでに夕刻になっていた。軽い徒労感を覚えながら東海道線に乗りこみ、二十分ほど揺られて愛野駅で降りた。袋井で開かれている有名な花火大会を訪れるためである。
 袋井の花火大会は「文部科学大臣賞全国花火名人選抜競技大会」と銘打たれていて、全国の花火職人を招待してやっている。実際、凝った趣向の面白い花火が多く、田んぼの道に座りこんで空を見ている内に、あっという間に時間が過ぎていった。
 打ち上げられた花火は空中の一点で炸裂し、同心円状に飛散する。炸裂した火薬ははじめは勢いがあるが、空気抵抗を受けて徐々に速度を弱める。やがて一瞬、夜空に大きな静止画像を描いたかと思うと、たちまち暗闇の中へ消え入る。変幻する光のイマージュは、炸裂直後は迅速に運動しているが、徐々に速度をゆるめて空間的な形態へ移行し、形態性が絶頂に達するその瞬間に突然消失する。運動から形態へ、「時間」から「空間」へと到達したものが、その極みにおいて、ふいに再び「時間」のただ中へ消え去る。
 このはかなさの印象はちょっと類例のないものだ。しかし花火の魅惑は、これだけには尽きない。ポーンポーンというあの独特の爆発音である。音が私たちの耳に届くとき、すでに爆発は終わっている。爆発音は爆発の存在よりもその不在を告げているのであり、それは花火の夢幻性を強調し、その美の主観的な性格を強める。
 こうして夜空に描かれる光芒は、外的な出来事というよりは内的なイマージュとなり、それを見る行為は、外的事物の観照というよりは夢や追憶の体験に近くなる。私が花火を見るとき、むしろ私はそれを夢見ているというべきなのだ。
 全部見終わって腰を上げ、駅を目指して歩いていくと、「出遅れちゃったな」と誰かがつぶやくのが聞こえた。駅へ着くと果たして大変な長蛇の列だった。移動手段がJRしかなく、しかも列車は10分おきだから、人の流れが目詰まり状態になっているのである。いったん列を離れて駅の反対側へ出、スーパーにビールを買いに行ったのがいけなかった。駅へ戻ると混雑はさらにひどくなっていた。結局また列を離れ、何度かビールを買い足しながら人の減るのを待った。二時間ほど経ってようやく列車に乗り込み、自宅に着いたのは深夜近くであった。(この記事は2022年10月に改稿しました。)