断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

8月11日(インターラーケン~ヴェンゲン)

 朝食をとりに食堂へ降りてゆくと、窓から淡紅色に染まったユングフラウが見えた。ホテルの人に訊いて天気予報を確かめると、今日は一日晴天とのこと。ホテルを出てヴィルダースヴィール駅へ行く。
 駅に着くと、一つしかないカウンターをグループ客が占拠している。列車の発車時刻が近づいていたので、ちょっとイライラしながら待っていると、隣のカウンターが開いた。ユングフラウヨッホ行の予約状況を確かめると、なんと午前中は次の8時10分の列車(に接続する便)しか空いていない。目下、時刻は8時8分である。大急ぎで切符を出してもらい、ぎりぎりで列車に乗り込んだ。
 昨日訪れたラウターブルネンの駅をへて、つづら折りに登る線路をたどりながら列車がヴェンゲン駅を過ぎた頃、ふと二日前に通ったブリークという駅の名前が思い浮かんだ。奇妙なことにそれは、二日前に見た駅の名前ではなく、21歳のときに耳にした名前であることが、はっきりと分かるのである。この印象がどこから来たのかは分からない。しかし私の心に浮かんだその言葉は、間違いなく「21歳のときのもの」という刻印を帯びていた。それは具体的な記憶とは何ひとつ結びついておらず、あらゆる媒介物を抜きに、21歳のときの私の存在感覚と直に結合しているように思われた。
 しばらく行くと列車が坂道で止まった。隣の窓際に座っていた女の人が、私の袖をつまんで「線路に牛がいるのよ!」と教えてくれた。身を乗り出して窓越しに前方を眺めると、牛の姿がちらりと見えた。席を立ち、先頭車両へ駆けつけて見ると、数頭の牛が線路を占拠していた。列車の前方だけでなく線路の左側にも何頭かいる。草を食べているのもあれば、古い聖画にあるようなあどけない目つきで、きょとんと私たちを見つめているものもあった。
 列車がまた動き出すと、ユングフラウの山々がぐんぐん近づいてきた。ほどなくクライネ・シャイデックの駅に到着。山頂を目指す列車に乗り換えた。しばらく行くと列車はトンネルにもぐりこんだ。あとは山頂駅まで地下の行路である。
 山頂駅に到着。駅は地下にあるが、山をくり抜いて広大な施設が築かれており、エレベーターで山上へ出ることができる。アルプスの山塊や氷河を間近にのぞむ見事な展望だが、こんなものかという印象も拭えない。やはり山は自分の足で登ってこそのものである。楽して乗り物で行っても、何だかまがいものを見ているような虚しさを感じてしまう。
 建物の外へ出て雪の上を歩いた。サングラスを持ってこなかったので、雪面の反射光がまぶしい。しばらく歩いて荷物を下ろし、デジカメを取り出した。四囲の景観をカメラにおさめていると、通りかかった男の人が「撮ってあげようか?」と声をかけてくれた。礼を言ってポーズを取ろうとしたが、「ちょっと待ってくれ」と頼み、上着を脱いでTシャツ一枚になった。もちろん帰国後に酒の肴にするためである。相手の男も笑いながらシャッターを押してくれた。
 山頂には3時間ほど滞在し、ビールとパンで昼食をとった。再び列車でクライネ・シャイデックの駅へ。そこで下りてハイキングコースを歩きはじめた。ヴェンゲンへ下りるロープウェイ駅に向かうコースで、背後にユングフラウ三山を望みながら、よく整備された快適な道が続いた。
 ロープウェイ駅に到着。あっという間の下りで、今夜の宿があるヴェンゲンの町へと下りてきた。列車に乗って再度、ヴィルダースヴィール駅へ。実は昨日泊まったホテルに、荷物を預けていたのである。荷物を取って再度、ヴェンゲンの駅へ。ホテルは駅から歩いてすぐのところにあった。


(クライネ・シャイデックから振り返って見たユングフラウ連山)



(ロープウェイの山頂駅からの眺め)