断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

舞台俳優のアウラ

 大学時代の後輩の招待で新橋演舞場の『さらば八月の大地』を観てきた。ほぼ一年ぶりの観劇である。
 観客席に座り、やがて幕が開くと、舞台上の大道具小道具にまじってすでに俳優たちが立ち動いている。だが舞台と観客席の間にはまだ一種の隔たりがあり、俳優たちも軽い違和感をもって私たちの目に映じる。しかし舞台の空気が観客席に浸透し、俳優たちもまた演じる役に沈潜してゆくと、そうした違和感も解消されてゆく。やがて舞台と俳優、観客の三者が不可視の紐帯の中へ織り込まれる頃、俳優たちの身体が、何か存在の光輝とも呼ぶべきものを発しているのに気づく。ベンヤミンのいう「舞台俳優のアウラ」である。
 こうしたものを舞台上の「仮象」と呼んでしまうのはたやすいが、それが具体的な手触りをもって迫ってくるのは確かである。そもそもベンヤミンが、俳優も絵画も自然の風景も一緒くたに「アウラ」という概念で包括しようとしたことに無理があった。たとえば絵画のアウラとは、ジンメルが絵画について述べている「遠ざけつつ近づける作用」を抜きに考えることはできない。一方風景のアウラは、すぐれて人間の知覚様式に属する問題である。他方俳優のアウラとは、ロラン・バルトが「雰囲気」と呼んだものに近い。それは人間の存在論的外皮とでも呼ぶべき何かなのである。
 さてこの『さらば八月の大地』は音楽のない普通の台詞劇だが、劇中、ヒロインが他の登場人物たちの前で歌を披露するシーンがある。ヒロイン役の壇れいが突然、劇の途中で歌を歌いだすのだが、その美しさに私は思わず息をのんだ。歌の美しさに対してではない。彼女の美しさに対してである。あるいはより正確には、俳優としての彼女の存在の存在論的な美に対してである。すでに彼女の存在がまとっていたアウラが、その時いっそう高次の存在へと高められ、高められた存在が舞台の上に充満するのを私は見たのだった。
 私は劇における歌のもつ意味を初めて理解したような気がした。歌は「表現」ではない。「存在」なのである。それは目に見え手にも触れ得る何か、舞台ないしは俳優が放つ存在論的な放射なのだ。
 ミュージカルでは観劇後の余韻が、通常の台詞劇以上にずっと長続きすることは知っていたが、私はそれを、音楽によって強調された劇内容の余韻だと思っていた。言葉だけの台詞が十の力しか持たないのを、音楽は二十にも三十にも増幅してみせる。劇の余韻が長続きするのはそのためだと思っていたのである。しかし本当のところ、増幅されていたの劇の「内容」ではなく、舞台の「存在」だったのである。増幅された「存在」が、私自身の存在の内部へと深く浸透し、それが観劇後の余韻として長く残っていたのである。私がそれに気づかなかったのは、一見したところ歌が、あまりにも深く「劇」に根ざしているように見えたからであろう。あるいは歌が(『さらば八月の大地』とは違って)始終、舞台に鳴り響いていたからであろう。
 オペラについて言えば、私は少年時代からあまりにも深くモーツァルトのオペラにのめりこんでしまったので、オペラ一般を公平に論じる立場にはない。しかも私はモーツァルトのオペラをずっと「音」としてだけ聴いていた。(はじめて舞台でモーツァルトのオペラを観たのは、二十歳を過ぎてヨーロッパを旅行したときである。)しかし今にして思えば、私はモーツァルトの「音」を通して「舞台」を聴いていたのかもしれない。というのも私はオペラの音楽を聴きながら、そこに他の声楽作品とはまるで異なる手触りを感じていたからである。しかしこれはもはや「舞台俳優論」ではなく「モーツァルト論」の課題であろう。