断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

大井川河口の旅

 あっという間に正月が過ぎ、冬学期の仕事もほぼ終了した。こちら(静岡)では昨日あたりからすでに春の声が聞こえている。一時期に比べると日差しがよほど強くなった。東京より半月くらい季節が早いという印象である。考えてみればここは伊豆の東海岸城ヶ崎海岸伊豆高原)よりもさらに緯度が低いのである。
 話は少し遡るが年末年始のことである。大晦日は身の回りの仕事をしているうちにあっという間に過ぎた。ソバのかわりにパスタを食って年を越し、元旦はそれなりにのんびりできたが、翌二日、ふとしたことから研究上のメモを取り始めてきりがなくなり、結局三が日はそれで過ぎた。翌1月4日、気を取り直して大井川の河口近くにある「遊湯の里」という入浴施設へ出かけてきた。
 この施設はそばに吉田公園というのがあって、大井川の河川敷に隣接している。バスで到着後、すぐには風呂へ入らずに公園に足を運んだ。年初とは思えない暖かい日で、園内には多くの若い家族連れが集っていた。ぐるっと公園を回って川沿いの道へ出、河口を目指した。海岸に面した堤防に突き当たると、ちょっと迂回して砂浜へ降りた。そのまま岸に沿って歩いていくと、ほどなく河口にたどり着いた。
 大井川の河口を見るのは初めてである。よく晴れた穏やかな日和で、東の彼方にはうっすらと霞をまとった富士が見える。西には牧之原の台地が長々と御前崎まで延びている。細い砂州の先端まで行き、波にさらわれそうになりながら間近に河口が見える場所に立った。川の最下流だというのに驚くほど流れが速い。打ち寄せる波とぶつかり、渦を巻きながら勢いよく海に注ぎこんでいる。南アルプス最深部の畑薙ダムから井川湖、接阻峡、長島ダム、さらに下って川根から金谷と、大井川へは何度となく足を運んだが、あの無尽蔵とも思える流れが、今こうして目の前で海に注ぐのを見ると、感慨深くもあればあっけなくもあった。
 再び吉田公園を通って入浴施設へ戻った。靴を脱ぎチケットを買って、さっそく風呂に入った。温泉ではなくてただの風呂だが、そのかわり色々と趣向をこらしている。内湯の一つは薬湯で、浴槽のそばにこんな説明が掛かっていた。「……しばらくすると体中のあちこちに刺激を感じ始めます。これは湯の効いている証拠です。そのまま5分か10分、各自の体調に応じてつかってください。」果たしてしばらくすると沁みるような刺激がやって来た。そのまま浸かっているとどんどん刺激が強くなってきた。体中が焼けつくように痛んでもはや我慢の限界というところまで持ちこたえ、勢いよく浴槽を飛び出した。
 シャワーで体を流して別の浴槽に入ろうとしたが、体がひりついて湯につかれない。ちょうど海水浴で日焼けしたあとに温泉に入る感覚である。再びシャワーを浴びたが、ひりひり感は抜けない。それでも我慢しながらいくつか別の湯につかった。
 浴場を後にし、二階に上がってビールを飲んでいると、みるみる体がぐったりしてきた。たまっていた疲れがどっと表面へ出てきた感じである。帰りのバスでは文字通り前後不覚に陥り、気がついたら駅前の停留所に下ろされていた。
 そのまままっすぐ家へ戻ったが、たまっていたのは体の疲れだけではないようだった。ここのところずっと張りつめていた心の緊張が解け、一気に気分がリラックスモードになった。それから三週間。表面上は年明け前と同じように授業と研究をこなしてきたが、何となく本調子とはいえない。どこかリズムが狂ってしまった感じである。来週はスケジュール的にぐっと楽になるから、今度は大井川中流川根温泉へ行き、ひとつ寒中水泳でもしてくるとしよう。