断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

小林秀雄の「鐔」(今年度のセンター試験現代文)

 今年度の大学入試センター試験で、小林秀雄の「鐔」が出題されていた。自身の骨董体験をもとに、刀の鐔について論じたものである。
 高校時代、大学入試の現代文は何でこんなに難しいのだろうと思っていた。何年か経ち、当時の教材を読み返してみると、何のことはない、難解さにはちゃんとからくりがあった。入試に出るような評論文は、元々、ある程度予備知識のある読者を対象としている。そのため専門的な批評用語も、ことわりなしに無条件で用いられる。読み手に知識のある場合はそれでもいいのだが、そうでないと、論旨が飛び飛びで、あちこちに意味不明な難解な箇所があるように見えてしまう。難しさの正体はこれだったのである。
 逆に言うと入試現代文の多くは、予備知識があれば簡単に解けてしまう。そうと知っていれば、それ相応の対策も講じられるのだが、大半の受験生は(かつての私がそうだったように)「論理的な読解力」だの「的確な解答作成技術」だのを身につけるのに腐心しているのに違いない。
 高校三年のとき、ひょんなことから三島由紀夫の『太陽と鉄』を手に取った。読み始めてみるとこれが大変な難物で、文字通り四苦八苦したが、(受験対策の)「読解力向上」などという下心にも扶けられて、何とか読み通した。しかしそれで成績が上がったかというと、ほとんど効果はなかった。入試現代文で要求される能力は、やはり「論理的な読解力」などとはちょっと別物なのである。(ただし『太陽と鉄』自体は、別の意味で予備知識を必要とする。つまり作者三島由紀夫のことを多少なりとも知っていないと、読んでも面白くも何ともない。)
 小林秀雄の難しさは、『太陽と鉄』のそれとは違う。しかし一般的な入試問題ともやはり異なる。難しさは、彼独特のロジック ― 飛躍と逆説に富んだそれ ― によるものなのである。だがこのロジックも、実際にはいくつかの「パターン」があって、それを知っていればさほど難儀するということはない。(「鐔」も彼らしいロジックが満載である。)が、そうでないとおそらく面喰う。今の高校生が、センター試験の会場でいきなりこんなものを読まされて、はたしてどう感じたのだろうか。
 ちなみに今年は、小林秀雄の没後三十周年に当たっているようである。あるいは昨年、吉本隆明吉田秀和という大物批評家が他界したことも、出題者の頭の片隅にあったのかもしれない。