断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

禅と年賀状

謹賀新年。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて新年最初のお題は、身も心もきりりと引き締まる「禅」で行きたいと思います。

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 年末に突然歯が痛み出した。すでに神経を殺して治療を終えてある場所なのにずきずきする。歯ブラシを当てることさえままならない状態である。一晩眠れずに苦しんで、翌朝、まだ営業している歯医者を探し出して駆け込んだ。
 診察椅子に上り、口を開けて見せると、
「歯根が化膿しているみたいですね。応急処置で噛み合わせだけ直しておきましょう。」
 そう言っていきなり歯にドリルを当て始めた。あまりの痛さに悲鳴を上げそうになった。(何しろ歯ブラシを当てるだけで激痛が走る状態なのである。)麻酔をかけてくれと頼むと、
「麻酔をかけたら、噛み合わせと痛みの加減がつかめないでしょう?大変だろうけど我慢してください。」
 そのまま麻酔なしで削り続けた。
 治療椅子を下りると意識が朦朧として足元がふらついた。ドリルの衝撃がまだ頭蓋骨に残っている。年明けまでの注意事項を聞かされたが、ほとんど上の空だった。が、痛み止めと化膿止めの薬を処方してもらい、家に帰って何回か飲むうちにウソのように痛みが収まった。この間、一昼夜。身も世もあらぬさまで過ごした一日だった。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」にはおよそ程遠い我が境地である。
 こんな私ではあるが、学生のころには鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行ったことがあるのである。大学四年の夏だったが、大学構内の掲示板に三泊四日(だったと記憶している)の学生座禅会のポスターを見つけ、それが五千円だか一万円だかの格安料金だったのをいいことに、物見遊山か避暑くらいの気分で気楽に参加したのであった。
 円覚寺に座禅といえば、漱石の『門』を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。『門』の宗助は救いを求めて参禅するが、座禅体験そのものは意外なほどあっさりしている。参禅というよりは参篭といった感じである。実をいうと私自身も、そういう、いわば短期間の寄寓みたいなものを期待していたのである。期待は見事に外された。寺での生活はスパルタ式を極め、起床から就寝まで分刻みでスケジュールが定められていたのである。早朝に叩き起こされ、眠気と足の痛みをこらえながらひたすら座り続ける。それ以外の時間は作務や講話に当てられる。勝手な行動は一切許されない。境内を散歩することさえできなかった。
 根がわがままな私は、すぐに我慢できなくなった。座禅を組めば足が痛いといって終了時刻を待ちわび、食事の席では配膳が遅いと苛立ち、境内をデートするカップルを見ては早く山を下りたいと切望した。本来、煩悩を払うはずの参禅が、ひたすら煩悩を増幅させる結果になってしまったのだった。
 ほうほうの体で四日間を終えると、寺で知り合った友人(彼も私と同様、物見遊山気分で参加したのだった)と一緒に山門を出た。とりあえず昼飯に行くことになったが、「脂っこい食事を食いまくろう」と意見が一致した。中華料理屋に入り、脂っこい中華料理をたらふく食って、四日間、たまりにたまった煩悩を払った。欲望に打ち勝つには欲望に負けてしまうに限る、そうすれば欲望は鎮まるのだから ― こう言ったのはたしかオスカー・ワイルドだったが、まさしく煩悩も、それに打ち勝つには負けてしまうに限るのであった。
 以来毎年、その友人とは年賀状を交換しているのである。