断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

シューベルトとドヴォルザーク

 ともに音楽史上、屈指のメロディー・メーカー。しかしそれとは別の意味で、私は二人にある共通点を感じるのである。
 シューベルトは古典派からロマン派への移行期に位置する音楽家で、厳密にはロマン主義の作曲家とは呼べないかもしれない。しかしその音楽は、やがて開花するロマン主義音楽のさまざまな可能性をいわば萌芽のかたちで示し、時代精神の黎明期に特有のみずみずしさを湛えている。これは作品内容の暗さ明るさとは別次元の話で、たとえば「冬の旅」という歌曲集は、内容そのものは絶望的に暗いが、音楽の底には暗さを超越した若々しさが流れている。
 このことは後期ロマン派の作曲家、ブラームスマーラーなどと比べてみると明らかである。彼らの作品はその根底部分に暗いよどみが漂っている。これは一個の文化の末期時代に特有の現象であって、こちらも曲想が明るいとか暗いとかいうのとは無関係の事柄なのである。
 シューベルトからシューマンメンデルスゾーンを経て、ワグナー、ブラームスマーラーへといたるロマン主義音楽の歴史を俯瞰して分かるのは一個の時代精神の消長であるが、そこでは誕生と成長、成熟、老化、そして死というプロセスに対応するかたちで、それぞれの時期に固有の情調が刻印されているのである。
 ところで私は、シューベルトの音楽と同種の「みずみずしさ」を、ドヴォルザークの音楽にも感じる(たとえば彼の交響曲第六番や七番など)。しかしこれは考えてみればおかしな話であって、音楽史的にドヴォルザークブラームスと同時代人、後期ロマン派に属する。ロマン派音楽の歴史ということでいえば、明らかに彼は終末期の薄明を生きた人間である。シューベルトとは置かれている歴史的状況がまるで違うのだ。
 だとすると問題にすべきは、むしろ「国民精神」のほうなのか。(ドヴォルザークチェコ音楽の勃興期に活躍した。)それともそれは、純粋に個人的な資質の問題なのだろうか。
 これに関して私は断定的なことはいえない。シューベルトに対するブラームスマーラーのような存在が、ドヴォルザークの場合には見当たらないからである。(なるほどチェコは、ドヴォルザークの後にもヤナーチェクを生んだ。しかしヤナーチェクはもはやロマン派の作曲家ではない。シューベルトブラームスを比較するようには、ドヴォルザークヤナーチェクを比較するわけにはいかないのである。)彼の音楽には歴史的な参照点が欠落している。
 ともあれ私自身は、ブラームスマーラーよりもシューベルトドヴォルザークのような音楽が好きである。あるいはもう少し時代が下って、二十世紀の音楽のほうが、よほど風通しがよくて気持ちがいい(もちろんものにもよるのであるが)。おそらくこのことは、私の生きている現代という時代の風通しの悪さとも関係しているのであろう。