断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

吉田秀和氏を悼む

 吉田秀和氏が亡くなった。享年九十八歳。天寿を全うしたというべきなのだろうが、やはり寂しい。5月22日に亡くなった後、一週間ほど間を置いて新聞で知ったのだが、その直前の日曜日に、氏の担当する「私の視聴室」を聴いたばかりだった。たまたま途中から聴いて、しかも曲目がシューベルトの第一と第二の交響曲だったから、「名曲のたのしみ」のラフマニノフが終わり、今度はシューベルが始まったのかと馬鹿な早とちりをしたのだった。
 氏の批評の見事さについては今さら私が言うに及ばず、その知性と感性、文章力は文句なしに第一級のものだったが、そうした見かけの華やかさの裏に、氏の地道で根気強い精進があったことは、もっと強調されていいと思う。
 たとえばモーツァルトの「ジュノーム」コンチェルトを論じた文章がある。原稿用紙百枚にも及ぶ詳細な楽曲分析だが、氏はこれを書くのに、実に四十年にわたって楽譜と付き合っていたのである。「私は、この曲から実にたくさんのことを学んだし、それが私の生涯のいちばん強くて大切な柱の一つになった。」という氏の言葉は、おそらく何ら誇張のないものであろう。音楽でも美術でも、あるいは文学や演劇、映画でも同じことだろうが、一つの作品に徹底的に打ち込むというのは、何ものにも代えがたい貴重な体験となる。それは当該作品だけでなく、音楽一般、美術一般、文学、演劇、映画一般に対する深い鑑識眼を養ってくれるのである。
 振り返って私たち現代人は、広く浅く、なるべく沢山の作品を知ることに汲々としている。一冊10分で本を読むとか、あらすじで世界文学の名作を知るとか、二時間で○○哲学を理解するとか、巷にはその類いの入門書やハウツー本があふれている。しかもこの風潮は、一般読者のみならず、書き手である知識人にも蔓延しているように見える。
 たとえば、森鴎外をざっと一通り読んだだけで「つまらない」と吐き捨てる。そういう人は、あるものを理解するということが、どれほど大変なことであるかを知らないのである。知らないから自分の鑑識眼への謙虚さというものが欠落してしまう。たとえば三島由紀夫は、森鴎外のよさを理解するのに十年かかったと打ち明けているが、たぶんそのような体験を通してはじめて、人は本当の意味での自信をもつことができるのだろう。
 吉田秀和氏の批評は、まさしくそのような意味での「自信」にあふれていた。したがってそれは、読者への媚びや過剰サービスと無縁であるとともに、はったりや虚言、居丈高な断定調、これ見よがしのアクロバティックスや自己の感受性のひけらかしなどからも遠い場所にあった。別の言い方をすると氏は、言葉の最良の意味における「誠実な」批評家であった。(「最良の」と書いたのは、この誠実さが、愚直な生真面目さや無味乾燥な知識蒐集癖などと無縁のものだからである。)
 それにしても生きた氏の声がもう二度と聞けないというのは悲しい。私は氏の批評に劣らず、「名曲のたのしみ」のファンでもあった。