断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「邪悪」をめぐる考察

 かれこれ十年以上も前、私がまだ学生だったころのことである。近所のコンビニでたまたま目にした「信長の野望」のゲームソフトを買った。家に帰り、さっそくパソコンで開いて遊び始めると、これが面白くてやめられず、気がついたら十数時間経過していた。まずいと思った。こんなことでは論文が提出できなくなる。CD-ROMをパソコンから取り出し、二つ折りに割ってゴミ箱に捨てた。
 以来私は、ゲームというものをほとんどやったことがない。やり出したらハマルと分かっているから、はじめから一切やらないのである。
 それでも近所のレンタルビデオショップの店頭で、新入荷のゲームのデモンストレーションを見ることがある。今までに見た中で一番多かったのは、主人公(つまりプレーヤー)が、悪の敵役と戦うというパターンである。たまたまそういうものを選んで流しているのかもしれないが、とにかくそういうものが多かった。
 プレーヤーは敵をやっつけながらゲームを進めるから、自然の成り行きとして、敵の数は膨大な数におよぶ。「善」(主人公)は単一だが、「悪」(敵)は多種多様である。これはゲームの構造上の必然ともいえるのだが、それにしてもよくもまあこんなに、と感心させられるほど沢山の「悪役」が登場するのである。
 先日、たまたま近所の大型スーパーのおもちゃ売り場で「ウルトラマン」シリーズのフィギュアを見つけた。ここでもじつに多くの種類の「悪」(怪獣)が存在していて、「悪」をめぐる人間の想像力の豊かさに、今さらながら驚かされた。
 「悪者」のイメージは千差万別だが、同時にそこには、いつも同じ種類の「邪悪」の表徴がある。つまり「悪者」は、誰の目にもそれと分かるような顔つきや表情、身体的特徴などを備えているのであって、外面的なイメージの多様さの背後に、「邪悪さ」に関する最大公約数的な表徴がひそんでいるといえるのである。
 これは驚くべきことではないだろうか。「悪者」はどこの誰が見ても「悪」として識別されるのである。たとえば私たちは、善悪の基準も道徳も相対的なものであるという考え方に当たり前のようになじんでいる。だとしたら何を「善」と感じ、また何を「悪」と感じるかも、人によってさまざまであってよいはずである。ところがアニメやゲームの悪役については、それが悪役であるということに関して、百人が百人、意見が一致する。「邪悪さ」の表徴は普遍的である。あるいは少なくとも、普遍的に作用する「邪悪さ」の表徴が存在しているのである。
 私が興味を感じるのは、このような表徴がいったいどこに由来するかということである。たぶんそれは、人類史のかなり早い時期にまで遡るはずであり、過酷な生存競争の中、外界に危険な「敵」があふれていた時代に出来上がったものではないかと思われる。そしてそれは、特定の「敵」の属性というよりは、人間一般に共通の悪意や敵意、憎しみ、怒りなどの表情が、長いあいだに人類の記憶の中に蓄積され、抽象されたものなのだろう。だからこそそれは、あらゆる時代あらゆる地域の人々に、一様にネガティヴな印象を与えるのであろう。
 「邪悪さ」の表徴へのネガティヴな印象は、人間の心の深い場所に血肉化されている。私たちは、青い空や緑の草原に「快」を感じるのと同じように、「邪悪さ」に対して「不快」を感じる。したがってこの「不快」は、善人に対してと同じように悪人にも起こりうる。極悪非道な犯罪者が、テレビの時代劇の悪役を見て憤慨したという笑い話(?)を聞いたことがあるが、これなどはその例といえるかもしれない。
 その意味で私は、ニーチェキリスト教批判(キリスト教道徳批判)は眉唾物だと思っているのである。ニーチェによれば、「よい/わるい」という価値表象は、もともとは身分的な上下関係に由来するもの(「支配者=優良なもの/被支配者=劣悪なもの」)だったのだが、キリスト教的な弱者のルサンチマンが、「支配者=邪悪なもの/被支配者=善良なもの」という風に転倒することで、新たな価値体系が成立したという。しかし「邪悪(善良)」は「劣悪(優良)」と同じくらい古い価値表象である。それはキリスト教とは全然関係のない場所や時代でも、当たり前のように見出されるのである。