断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ボンクラーズと米長邦雄(3)


 ……ここまで私は、将棋というゲームの「新しさ」や「創造性」のことを語ってきたが、じつはこれは、文学や芸術の問題を論じるための下準備だったのである。「新しさ」や「創造性」の問題は、近代以降の文学者や芸術家の主要な関心事で、場合によってはほとんど強迫観念でさえあったのだが、この芸術における「新しさ」の問題を、ここでは将棋との類比で考えてみようと思う。
 将棋というゲームのコードは、「ルール」という客観的なレベルと、それよりは主観的といえる「定跡」のレベルがあって、指し手の「新しさ」とは、後者の意味におけるコードの更新であった。しかしこうした定義を、芸術や文学に適用しようとすると、たちまち話が曖昧になる。たとえば抽象画の発明は、絵画が「現実を再現するもの」であるという古い概念を覆した。これは絵画における前提的な約束事を書き換えるもので、「ルール」のレベルでの「新しさ」に見える。では絵画史上において、抽象画以上に画期的であったルネッサンスにおける遠近法の発明はどうだろうか。それは「ルール」を変更したものだったのだろうか。それとも「定跡」を更新したものだったのだろうか。
 中世の絵画は平面的で、遠近法的な奥行きが欠如している。だがそれは、絵画の技法における単なる「約束事」というよりも、中世人の世界観の反映だったというべきである。中世的世界観の崩壊と遠近法の発明は軌を一にするものであり、表現上の枠組みという客観的なもの(ルール)は世界観という主観的なもの(定跡)と分かちがたく結びついている。
 将棋における「ルール」は「定跡」よりもメタレベルにあるコードで、しかも絶対の拘束力をもつ客観的な規則である。遠近法は、少なくともそのような意味での客観性も拘束力ももっていない。それでは文学や芸術の領域で「絶対的な拘束力をもった規則」なるものは存在するのだろうか。たとえば和歌や俳句における音数や季語などの決まり事はどうか。たしかにこれは(字余りなどの例外はあるにしても)一応「ルール」といってよさそうである。次にそのような「ルール」を破ったものとして、自由律俳句のようなものを考えてみよう。自由律俳句は五七五という俳句の基本の約束を反故にしたものであり、それまでの「絶対的な規範」を逸脱したものである。が、そこでなされたのは、ルールの変更というよりもむしろ表現上の実験であり、言葉の内在的なリズムにもとづく新たな表現様式への志向だった。つまりここでも、客観的な領域は主観的な要素によって浸潤されている。