断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ボンクラーズと米長邦雄(4)

 「ルール」と「定跡」の区分は、それを文学や芸術の領域に適用しようとするやいなや、たちまち曖昧になってしまう。というのも芸術においては、主観的なものと客観的なものを分けることにそもそも無理があるからであり、「新しさ」が「ルール」のレベルでの変更なのか、それとも「定跡」レベルでの更新なのか、区別しがたいからである。
 将棋というゲームの「ルール」を変えるのは、じつは小学生にでもできる。(たとえば二歩をOKにするとか、香車は後ろにも進めることにするとか。)しかし「定跡」の変更となると、これはもうトッププロの知識と技術をもってしてしかできない。あるいはこう言ったほうが正確かもしれない。「定跡」を変えるために知識や技術が必要なのではなく、技術上の修練の延長に「定跡」が更新されるのだと。
 ところでそれは、芸術においてももまったく同じなのである。たとえば芭蕉は、前代の談林派の俳諧を乗り越えて蕉風俳諧を確立したが、これはメチエにおける絶えざる精進の「結果」にほかならず、メチエに先立って蕉風俳諧という芸術上のイデアが掲げられていたわけではない。
 あるいはモネは、彼自身の個性的な芸術(たとえば「睡蓮」シリーズ)を確立する前に、いわゆる印象派の絵画技術を徹底的に研究していた。この場合、描法すなわちメチエは、ひたすら非個性の技術上の問題であって、たとえば彼は一時期、ルノワールとカンヴァスを並べて技術上の修練に没頭していたが、その時分に描かれたタブローは、どちらがモネ作でどちらがルノワール作なのか、ほとんど見分けがつかない。それらは徹底的に「非個性的」な絵である。
 将棋というゲームにおける「ルール」と「定跡」の区分は、前者が客観的で後者が主観的だとか、前者は後者よりメタレベルにあるとか、そういう形での区別以外にも、メチエ(技術)という観点からの区分が可能なのである。芸術作品の「新しさ」を考える際に有効なのは、むしろこの後者の視点である。
 「ルール」の変更はメチエと無関係にできるが、「定跡」の更新はメチエの修練なしには考えられない。同じように芸術でも、メチエの追求の結果としてあらわれてくる「新しさ」と、メチエを媒介としない方法論先行の「新しさ」の二種類がある。長くなるので、これ以上はまた別の機会に譲りたいが、前者の例としてはセザンヌの絵画のようなものを、後者の例としてデュシャンのレディ・メイド(既成の工業製品に作家のサインをして自分の「作品」とするもの)などを思い浮かべていただけば分かりやすいだろうと思う。