断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

新入生に本を勧めるとしたら?

 昔、社会人二年生の後輩と飲んでいてこんな話を聞いた。彼ら二年生が、新入社員に本を一冊すすめるよう言われたというのである。年齢的に一番近いということもあったのだろうが、思うにこれは、彼ら二年生自身の「自己研修」だったのだろう。誰かにものを教えるというのは、それだけで自分の勉強になる。何よりも日ごろから本を読んでいないと、他人にすすめることなどできない。
 私も学生に本を勧めることはある。個人的に勧めることもあれば、授業の課題図書として強制的に読ませることもある。が、新入生全般を対象にして本を勧めたという経験はない。
 たとえばこれが、自分の専門分野の学生を対象としたものだったら、研究の入門書や必読書という選択もありうるだろう。しかし専攻分野も授業テーマも関係なしに、純然たる一般論として「大学一年生に読んでほしい本」となると、選ぶ基準が見当たらない。個人的に感動した本をすすめるか、さもなくば「古典を読みましょう」みたいな、ありきたりの読書観を振りかざすしかないであろう。
 しかし大学初年度を、専門教育の入り口としてではなく、やがて社会へ出てやってゆく人生行程の一里塚ととらえるならば、話は違ってくるかもしれない。社会で生きてゆくための必須の知、いわゆる人間知を学ぶことを読書基準にすることもできるからである。
 人間知などというと高尚に聞こえるが、要するに人間の「悪」についてのお勉強である。(むろん人間性はそれだけに尽きるわけではないが。)社会に出るとさまざまな人間悪に直面する。虚偽、小心、強欲、狡猾、偽善、打算、虚栄、自惚れ、傲岸、攻撃性、支配欲、事大主義、卑しい党派根性、底なしの拝金主義……。こうした人間悪に、あらかじめ学生時代に熟知しておくことのメリットは大きい。もちろんそれらは、のちに実社会でイヤというほど目にするものなのだが、いったん自分が社会に出てしまうと、組織や人間関係の論理に直接巻き込まれてしまい、かえって客観的に眺められなくなる。
 人間知の勉強は、来るべき社会生活の「予習」である。しかし単なる「予習」であれば、別に本など読む必要はない。現代は、たとえば「ブラックバイト」という格好の「生きた教材」が、大学生向けにふんだんに用意されている。学生をこき使う「ブラックな」研究室も昔から事欠かない。ボランティアをはじめとする種々の社会活動も、生きた人間知を学ぶ格好の場であろう。
 書物で人間の「悪」を知ることは、他人の悪だけでなく自分自身の「悪」への気づきとなるのである。この場合「悪」とは、虚偽や攻撃性といった積極的な意味での人間悪というよりは、むしろ自分の中にある「弱さ」である。
 「悪」にやられるのは必ずしも「善」ではない。むろん善人が悪人の犠牲になるのは「この世のならい」であるが、しかし本当の意味で「悪」にやられてしまうのは、「善」よりはむしろ「小さな悪」のほうである。小ずるい人間は、より狡い人間のカモになりやすい。悪は他人の「弱さ」にうまくつけこむのである。今の世の中は、なるべくうまく立ち回って生きてゆこうとする風潮が強いが、うまく立ち回っているようでいて、実際は自分の弱さに振り回されているだけというケースは多い。悪人の鋭い嗅覚はこうしたものを敏感にかぎ分ける。そしてそれを狡猾に利用するのである。
 さてそれでは人間の「悪」を知るのに、どんな本を勧めればいいのか?ありきたりの答えではあるが、小説を勧めるということになるだろう。むろん小説といってもファンタジーはダメで、人間や社会の現実をリアルに描いたものである。では具体的にどの本をと訊かれたら、「小説全般」と答えるほかないだろう。一冊や二冊の小説を読んだだけで「人間」を知ることはできない。
 しかしそれではブログの記事としては片手落ちなので、「古典的小説」の中から一冊を挙げてみよう。スウィフトの『ガリヴァー旅行記』にふくまれる「フウイヌム国渡航紀」である。これは特定の人物を描写したものではなく、設定も「ファンタジー」なのだが、総体としての人間批判を行っていて、その辛辣さはちょっと比類がない。
 現代の人間批判は、どれほど人間性のネガティヴな側面をえぐり出すにしても、またいかに人間の自由な「主体性」を否定してみせようとも、総体としての人間までは否定しないように見える。こうした傾向は、ルソーの思想の遠い残響といえなくもないが(ルソーはスウィフトのちょうど後の世代)、それよりもむしろ、現代において「神」が不在であることによるのだろう。「神」を否定し、「人間」まで否定しまえば、もはや肯定の対象はなくなってしまう。
 なるほど人間という「概念」は時代によって変遷し、場合によっては「終焉」するかもしれない。しかしそのことと、人間が自己についての価値感情をもつことは別の事柄である。「神」が「存命中」は、それに託して人間性のポジティヴな側面を語ることもできた。だがそれはもういない。「神は死んだ」(ニーチェ)のである。「人間」とは、あるいは私たち現代人に残された最後の信仰対象なのかもしれない。