断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

恥ずかしい日本の私、恥ずかしい私の日本(日本の景観 その1)

 最近はドイツのメディアでも中国のことがよくとり上げられる。何年か前のドイツの雑誌『シュピーゲル』の特集記事に、「ライバル―中国対ドイツ:世界市場をめぐる戦い」というものがあった。記事の内容自体はとりたてて目新しいものではなかったが、興味深かったのは、ドイツと中国が「世界市場をめぐるライバル」であるという自己認識ないしは自己評価であった。中国にとってドイツは、たぶん数ある競争相手のひとつに過ぎず、経済的外交的関心は、むしろ米国やロシア、アジアの周辺諸国、資源調達先であるアフリカの国々などに向けられていると思うが、しかしこの記事からはそうした視点がすっぽりと抜け落ちていた。いわば自己を過大視してしまい、相手を客観的に見られずにいた。
 人間はどうしても自己を中心に物事を眺めがちである。ついつい自分が、他人にとっていかにも重要な存在であるかのように思い込んでしまう。いわゆる自意識過剰というやつだが、しかしこの種の愚かさは、私たち日本人だって日常的に犯している。たとえばマスコミは、政治家の外交上の失策をとり上げ、「外国の信用を失った」とか、「世界中の物笑いだ」などと書き立てる。しかし現実には、誰も何とも思っていない場合がほとんどである。(少なくとも外国メディアを見る限りそうである。)
 さて私が日本の景観について語ろうとするとき、まさしくそれと同じ愚を犯しそうになるのを感じる。私は日本の景観が、外国人に見られて恥ずかしくないものであってほしいと願うのである。(裏を返せば、現実の景観は思わず恥じ入ってしまうくらい醜悪だということである。)たとえて言うと、実家に彼女を連れていったら、部屋が散らかり放題で恥ずかしい思いをしたというのと似ているが、外国人旅行者なんて、いわば通りすがりに窓から部屋を覗いていくだけなのだから、どう思われようと構わない。放っておけばいいのである。そんなものを、実家に連れて行った彼女と比較すること自体、馬鹿げているのであるが、しかしそれでも私は、日本の景観を考えるときに「他人の目」というものを考えてしまうのである。