断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

住めば都(日本の景観 その2)

 私が「日本を訪れる外国人の目」などというものを持ち出すのは、第一には私の虚栄心によるのだが、もちろん理由はそれだけではない。景観というものは、その性質上、よそからやって来た人間が一番よく見えるのである。裏を返せば、日本に長く暮らしていると、自分を取り巻く環境に慣れっこになってしまう。どこが良くてどこが悪いのか、分からなくなってしまうのである。
 これは、海外から日本に帰ってきた場合のことを考えると分かりやすい。たいていの日本人は、外国から日本へ帰ってくると、街の汚さが気になる。ヨーロッパやアメリカの整った街並みと、雑然とした日本のそれとを比較してしまうのである。が、こうした違和感が続くのは、帰国後せいぜい数週間である。その後は慣れて、ごみごみした建物や看板、乱雑な電信柱や電線などが全然気にならなくなる。
 昔、日本へやってきた或るドイツ人とドライブしたことがあった。車窓が山間の田園にさしかかったとき、彼は「日本でこんなきれいな景色を見たのははじめてだ。」と言った。見ると何の変哲もない田んぼの景色である。どこがいいのかと訊くと、「日本はどこへ行っても自動販売機や看板ばかりだ。でもここにはそれがない。」
 たったこれだけのやりとりでは分かりにくいかもしれないが、彼は皮肉でこんなことを言ったのではない。ごみごみした景観から解放され、心底ほっとしてそう言ったのである。(逆の体験もある。あるドイツ人は横浜みなとみらいを見て、「うらやましい」と言った。ドイツでは建築規制が多く、思い通りに建物を作ることができない。それができる日本がうらやましいというのである。)
 これなど、ずっと日本で生活している人間には、なかなか分かりづらい感覚だと思う。私たちはふだん、街の美醜というものをあまり意識しない。他人に指摘されれば気がつくが、それ以外はあまり気にかけない。見ているのに見えない、聞いているのに聞こえないのである。
 が、これは必ずしも悪いことではない。人間、目に見えるもの全てにいちいち反応していたら、とてもじゃないが生きていけないからである。「気にならない」というのは、一種の精神の自己防御機能なのだ。