断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

中島義道氏の『醜い日本の私』(日本の景観 その3)

 先日、中島義道氏の『醜い日本の私』という本を読み返す機会があった。これはじつに痛快な本で、日本の景観の醜さ、汚さ、いかがわしさを、これでもかとばかり書き立てている。(じつは今回、「日本の景観」というテーマでブログ記事を書き始めたのは、このことがきっかけだったのだ。)だがそれは、氏の純粋に個人的な感情から発したもので、何か底意があって誹謗しているわけではないから、読んでいてイヤな気分にはならない。
 それにしても氏の批判は、ほとんど過激といっていいほどで、一般的な日本批判とはおよそかけ離れている。氏自身、そのことについて自覚的であり、自分の感性が少数者のそれであること、社会はそういう少数者的な感性も受容してほしいということを述べている。
 だが日本の景観に対して、氏と同様の印象を抱く人間は少なくないと思う。その限りで氏の感性は、少数者のものとはいいがたい。問題は批判の内容よりもその激しさなのである。そして、そのような激しさの原因となっている「何か」にこそ、氏の独自性が認められるのである。
 『醜い日本の私』の中にこんな記述がある。


 先日、文楽を久しぶりに観た。みんなこぞって「不思議なことに、人形遣いが見えなくなる」と言うが、私には最後まで見えてしまい、目障りでしかたなかった。日本人の平均的身体とずれてしまったことを痛感した次第である。


 氏がここで「日本人の平均的身体」と呼んでいるものについては、ちょっと説明を要する。
 日本の社会には、相手にとって不都合なものを見てしまった場合に、「見えなかった」ことにする「慣習」がある。多くの日本人は、そのような慣習をいわば身体化しており、そうしたシチュエーションに遭遇したときに、半ば無意識にそう反応する。これに関連して氏は、柏木博著『「しきり」の文化論』から、以下のような記述を引用している。


 障子や襖は人の影や物音を伝え、その仕切の向こう側の存在のかすかな気配を気付かせる。(中略)こうした仕切は、仕切の向こう側で起こっている事態が仕切のこちら側にわかってしまう。しかし、それが都合の悪い事態である場合、仕切のこちら側の人は、それを聞かなかったこと、見なかったことにする。そこに暗黙の了解がある。


 が、仕切の向こう側で起こっている「都合の悪い事態」を「聞かなかった」ことにすることと、文楽人形遣いを「見えない」ことにすることは、似ているようで全然違う。これは文楽以外の一般的な劇作品を考えてみるとよく分かる。
 舞台で役を演じている俳優は、ふだんは生身の人間である。彼は現実世界に生きる一個人に過ぎず、そもそも劇中人物とは何の関係もない。
 さて彼が舞台の上にあがる。私たちは俳優何某という名のもとに彼を認知する。だが、舞台が進行するにつれ、私たちは劇に没入し、俳優もまた登場人物になりきる。彼は観客の目に劇中人物そのものとして映りだし、生身の人間としての彼はいわば「見えなく」なる。
 文楽人形遣いが「見えなく」なるのもこれと同じ現象である。人形遣いは、「見えないことにしましょう」という観劇上のルールにしたがって「見えなく」なるのではない。観客が劇に没入することにより、その存在が意識の外に追いやられるのである。つまり人形遣いが「見えない」のは、障子の向こうの出来事を「聞こえない」ことにするのとは全く別の事柄であり、観劇という体験に際して起こる、感性の一般的な反応様式なのだ。
 中島氏は、じつにこの反応様式を持たぬから、人形遣いの存在が「最後まで見えてしま」うのである。日常生活についても同じであろう。人間は、見えるもの聞こえるもののすべてに注意を払っているわけではない。ふだんは自分の関心事だけに気持ちを向けている。だから他のことは気にならない、意識に上らないのである。しかし氏はそうではない。目に入るもの耳に届くもののすべてが気になる。いちいち目くじらを立ててしまうのである。
 人形遣いが「最後まで見えてしまう」というのは、電線や看板、横断幕などがたえず気になることとまったく同じ現象である。だがそれは、氏が「日本人の平均的身体とずれて」いるからではなく、外界を知覚する仕方が、一般人と違うからである。だから目にするもの耳にするものにいちいち反応せざるを得ない、気になって仕方がない、そして「バスの中にずっとかかっているテレビにいら立ち、『ゴミをなくし、美しい町にしましょう!』というバカ放送にいら立ち、市内に入るや街路の両側に幾重にも張られている黒々とした電線(中略)にいら立ち、ちょうど目線のところにある夥しい数の原色の看板にいら立つ」という次第になるのである。


 何度も経験したことであるが、私が撮った醜悪な電柱・電線の写真を見せると、人々は一様に「こんなですか!」とびっくりする。外に出て「ほら」と頭上でとぐろを巻く電線を指さすと「ほんとうですねえ」と答える。しかし、彼らとしばらく歩いてから「ほら、あそこもまた凄いでしょう」と指さしても「えっ、どこですか?」とまごつく。すぐに見えなくなってしまうのだ。


 しかしこれは、氏の感受性が、一般人に比べて過敏だとか異常だとかいうことではない。ふつうの人だって、たとえば外国旅行から帰ってきた後は、多かれ少なかれ色々なことが気になるものである。だがそれも、しばらくすれば元に戻る。「えっ、どこですか?」というのと同じ反応をするようになるのである。