断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

異化と景観(日本の景観 その4)

 ロシア・フォルマリズムに「異化」という概念がある。たとえば日常会話などで使われる言語は、コミュニケーションの「道具」であり、何かを相手に伝えるための「手段」である。そこでは言葉は、いわば手垢にまみれた状態で使用されている。ロシアフォルマリズムの理論は、これを「自動化された」言語使用と呼ぶ。そのような状態から言葉を救い出すのが、詩人や作家の仕事である。彼らは言葉にこびりついた垢を洗い落とし、本来のみずみずしい輝きを取り戻す。「異化」とはそのようなプロセスを指す概念である。
 もちろん詩や小説だけではない。音楽や絵画だって私たちの知覚を「異化」し、「自動化された」状態から救い出す。しかし「自動化された」知覚とは、そもそもどういうものなのだろうか。
 たとえば家を出て駅にたどり着くまでの間、私たちはさまざまな景観を目にする。それはごみごみした家並みかもしれないし、けばけばしい看板や広告、醜悪な電線・電柱の類いかもしれない。いずれにせよ目にするのは、美しいものばかりではない。しかしだからといって私たちは、いちいちそれを気にかけたりしない。当たり前のものとして受け流してしまうのである。
 自動化された知覚とはそのようなものである。日常生活において私たちは、そうした自動化状態の中で生きている。目にする景観は「自明のもの」であり、それに違和感を感じるのは、よそからやって来た人間か、さもなくば長くその土地を離れていた人間である。
 景観論というものが、往々にして実効性を持たないのはそのためである。批判をする側は、異化するまなざしで景観を眺めているのだが、そこに住んでいる人間は、それを当たり前のものとして受け止めている。両者の間には接点がない。批判が批判として機能しないのである。
 これは景観論の構造上の問題ともいえるが、そのような景観における批判する側とされる側の乖離は、思えば明治の昔に永井荷風が東京を批判して以来、ずっと存在していた。だがそれは、ふだんは前景化することはない。書き手は景観改善という大問題が、一知識人の手に負えるものではないことを弁えており、自分の啓蒙的意図が受け入れられなくても苛立ったりしないからである。
 ところが『醜い日本の私』の中島氏は、目にする景観のいちいちに目くじらを立てて怒る。怒られた側は何で怒られているのか分からない。何を批判されているのか理解できないのである。だからいたるところで悲喜劇が繰り広げられる。(たとえば大学近所の商店街では、ほとんど全ての店が氏に叱られたそうである。)だがそれは、景観論というものが構造的にはらんでいる問題を、はからずも前景化しているのだ。『醜い日本の私』の作者は、異化する感性と自動化された感性との間に横たわる越えがたい溝を、いわば戯画的に演じてみせているのである。