断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

翻訳大国ニッポン

 ここ数回、「景観」をテーマに記事を書いてきた。実はまだもう少し続きがあるのだが、今回は息抜きを兼ねて別の話題にしたい。
 私は人文系の大学院を出ていて、いわゆる研究職というものをやっている。一般社会からすれば浮世離れして見えるこの業界だが、それでも客観的な競争原理と呼べるものがないわけではない。論文の本数がそれである。すなわち論文を書けば、研究業績としてカウントされ、その数が多ければ多いほど就職などで有利になるのである。
 とはいえ学者の業績には、研究論文以外にもさまざまなものがある。たとえば翻訳である。しかし翻訳は、大学という制度において、事実上、業績評価の対象になっていない。どれだけ翻訳の仕事をしても、研究業績とはみなされないのである。たしかに翻訳は、オリジナリティーという点ではあまり価値がないかもしれない。しかし別の観点からすれば、下らない論文などよりよほど価値があるともいえる。
 研究室の後輩から聞いた話である。あるドイツ人講師が、ゼミの授業で学生たちに「最近、ためになる論文を読んだか?」と訊いた。学生たちは異口同音に「読んだ」と答えた。するとその先生はニヤリと笑って、「本当かい?ためになる論文なんて、めったにないと思うけどな。」これはドイツ語論文の話だが、日本語で書かれたものだって事情は似たり寄ったりである。「ためになる論文」なんて「めったにない」ものなのである。
 昔、はじめてドイツに短期間滞在したときのことである。当時インターネットはまだ一般的でなく、ちょっとした調べものをするにも全て横文字の本に頼らねばならなかった。当たり前といえば当たり前だが、結構不便な思いをした記憶がある。
 しかし考えてみれば、明治のはじめに西洋の学問が輸入されたときにも、頼れるものは横文字の本しかなかったのである。『三四郎』の中に、はじめて大学図書館に足を踏み入れた主人公が、手にとって見る本のことごとくに書き込みがあって驚くという場面があるが、あれは横文字の本だから驚くのであって、もしも日本語で書かれたものだったら、単にマナーが悪いと思っただけだろう。
 それから百数十年。多くの大学生は横文字の本なんて触れもせずに勉強し、卒業していく。だが今日、多くの国々では、学問をするのに母国語以外の言語を使わなければならないはずである。わが国の文化状況は、例外的といっていいくらい恵まれている。翻訳は、一個の国語に蓄積された、文化の資本なのである。しつこいようだけれどそれは、業績稼ぎを目的にした下らない論文などよりよほど価値がある。
 念のため断っておくと、私はこれまでに翻訳の仕事をしたことはない。したがって以上書いてきたことは、自己弁護を目的としたものではなく、第三者的な立場から翻訳を擁護したものである。