断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「うち」と「そと」(日本の景観 その5)

 前回、景観改善をめぐる知識人の提言が、なぜ住民や行政に届かないのかということについて書いた。しかしそのこととは別に私は、日本の景観が、いわば内在的な理由から改善困難なのではないかと考えている。少なくとも西欧的な意味での「美観」を阻むものが、そこにはあると思う。そうした観点から、今度はより具体的に日本の景観というものを考察してみたい。
 表題に掲げた「うち」と「そと」というのは、もともと和辻哲郎が『風土』で提示した考えである。


 (前略)日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては個人の区別は消滅する。(中略)すなわち「うち」としてはまさに「距てなき間柄」としての家族の全体性が把捉せられ、それが「そと」なる世間と距てられるのである。(『風土』)

 
 こうした考えを受けて、『街並みの美学』の芦原義信氏はこう述べている。


 わが国では伝統的に、家の内部に整然たる秩序をととのえ、家族を中心に一軒ごとに内的秩序を保ってきた。内部に秩序をもつということは、別な見方をすると建築の外部には無関心であることを意味し、都市空間の充実という構想は稀薄であった。(『街並みの美学』)

 
 もちろん西欧人の生活空間にも、「うち」と「そと」の区別はある。だがそれは、建物の内部に対する外部というのとは違うものである。これについて芦原氏は、日本旅館と西洋式ホテルの違いを比較しつつ説明している。日本旅館では建物の内部が「うち」であり、外部が「そと」である。玄関から中に入ってしまえば、そこは半ば私的な空間であり、「ゆかたに丹前で自由に闊歩できる」。西洋式のホテルではそうはいかない。部屋から一歩外に出れば、そこは公共の空間である。つまり部屋の中だけが「うち」であり、廊下やロビーをだらしない格好で歩き回ることは許されない。「そと」は部屋のドアを開けた時点ですでに始まっているのである。
 西欧の住居空間では、プライベートな領域は各人の部屋に限定されている。ということは、自分以外の人間との交際は、ことごとく「そと」で行なわれるということを意味している。


 一歩室を出れば、家庭内の食堂であるとレストランであると大差はない。すなわち家庭内の食堂がすでに日本の意味における「そと」であるとともに、レストランやオペラなどもいわば茶の間や居間の役目をつとめるのである。だから一方では日本の家に当たるものが戸締まりをする個人の部屋にまで縮小せられるとともに、他方では日本の家庭内の団欒に当たるものが町全体にひろがって行く。(中略)しかしそれは部屋に対してこそ外であっても、共同生活においては内である。町の公園も往来も「内」である。(『風土』)


 西欧の街は、個人のレベルでは「そと」である。しかし共同生活のレベルでは「うち」なのである。だから彼らは、日本人が家の中をきれいにするのと同じ感覚で、街の美観を保つ。逆にいうと日本人は、家の外を美しく保つ動機を根本的に欠いているということになる。


(前略)「そと」は汚れた空間であるが、「うち」は清浄な空間である。人々は履物を脱いで「うち」に入る。そして、われわれが大切にするのは「うち」からの風景であり、けっして「そと」からの風景ではない。家の中から「そと」がどう見えるかには神経をすり減らすが、家が「そと」からどう見えるかには無神経である。(『醜い日本の私』)


 日本の住居区間が、不浄な「そと」と清浄な「うち」という区分の上に成り立っている以上、われわれ日本人の美的関心は、もっぱら建物の内部に向けられている。「そと」はもともと汚れた場所だから、きれいに飾る必要などない、無頓着になるというのである。
 一見したところこれは説得力のある議論である。たしかにそう考えると、「日本の商店街の外観は恐ろしく猥雑であるが、一歩踏み込むや(一般に)内部はうってかわってこぎれいなこともうなずける」(『醜い日本の私』)のだから。