断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

村祭りから渋谷センター街まで(日本の景観 その6)

 ところで中島氏は、そうした駅前商店街的な猥雑さを、日本人の心の原風景といえる「祭り」とのつながりから考察している。


(前略)鎮守の村祭りのひっそりした太鼓や笛の音から、スピーカーによる耳をつんざく盆踊りまでたった一歩であるように、裸電球が揺れる縁日の光景は、横町の赤提灯の光景に連なり、それが自然なかたちで下北沢に、吉祥寺に、渋谷センター街に成長してゆく。いずれも、「肌触り」が同じなのである。ただ、質的に同じものが量的に拡大しただけなのだ。(中略)ここには、見えにくいが一筋の細い道が伸びているのである。


 情緒あふれる村祭りと渋谷センター街の光景は、一見したところ正反対のものに見えるかもしれない。しかし両者は感性の質において連続的であり、「質的に同じものが量的に拡大した」だけだというのである。
 しかし、だとすると、氏が「猥雑」だとして非難する駅前商店街は、「うち」に対する「そと」とは言えなくなるのではあるまいか。村祭りの空間は、人々が共同で事を行なう場所である。そこは「部屋に対してこそ外であっても、共同生活においては内」なのである。かりに駅前商店街が、祭りの空間と質的に同じものだとしたら、その猥雑さも、「そと」であるがゆえの「不浄さ」とは違うものということになるだろう。
 「そと」は、人々が集う親密な内部空間から排除された場所である。そこは私たちの意識の外部にあるもの、関心の対象外であるものである。だがこうした定義は、ちょっと考えれば分かるように、下北沢や吉祥寺、渋谷センター街などには当てはまらない。それらはごみ溜めのように汚物が集積した場所ではなく、むしろ人々が親密に集う場所だからである。
 実は中島氏自身、別の箇所でこうも述べているのである。


 以上のことから、田んぼや小川ばかりでなく、あのごたごたした商店街も日本人の「心のふるさと」なのだと考えることができるであろう。多くの人びとにとって、稲穂が風にそよぐ田園風景が心地よいように、頭上には電線がとぐろを巻き、原色の看板でびっしり埋め尽くされ、スピーカーががなり立てるあの商店街の光景は心地よいのだ。
 なぜなら、どう考えても、われわれは、いやいやながらではなく、自暴自棄になってでもなく、工夫に工夫を重ねてああした商店街風景を造り上げているのだから。

 
 「ごたごたした商店街」は「不浄な場所」ではない。それは多くの人にとって「心地よい」場所なのである。別の言葉でいうと私たちに親しみを感じさせる場所である。だからそれを、「うち」から排除された「そと」として定義することはできない。それが証拠に、たとえばデパ地下やガード下の居酒屋など建物の内部にも、全く同じ種類の「心地よさ」が存在するではないか。
 日本の街の猥雑さは、清浄な「うち」に対する汚れた「そと」の表れではない。むしろそれは親密さの感覚と表裏の関係にある何かなのである。「汚れ」ではなく「親密さ」が問題なのであり、またそれを私たちが、具体的に空間の中でどのように実現しているかを考察すべきなのである。