断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

第一次輪郭線と第二次輪郭線(日本の景観 その7)

 芦原義信氏は街並み空間を考察するにあたって、「第一次輪郭線と第二次輪郭線」という概念を提示している。


ここで建築本来の外観を決定している形態を、建築の「第一次輪郭線」と呼び、建築の外壁以外の突出物や一時的な付加物による形態を建築の「第二次輪郭線」と定義するならば、西欧の都市の街並みは建築本来の「第一次輪郭線」で決定されるのに対し、香港、韓国、日本等のアジア諸国の街並みは「第二次輪郭線」で決定される場合が多いのである。


 「第一次輪郭線」とは、ビルや家屋など建物それ自体の輪郭線であり、「第二次輪郭線」とは、看板や装飾などの付随物によって作られる輪郭線のことである。氏によると、西欧の街並みは基本的に第一次輪郭線によって構成されているが、看板や装飾が氾濫するアジアの街並みは、第二次輪郭線によって覆いつくされているというのである。
 余分な第二次輪郭線を取り払えば街並みはすっきりする。芦原氏は「建築の第一次輪郭線をより見えやすくし、第二次輪郭線をできるだけ減らし、まず街並みの印象を豊かにすることが肝要」だと主張している。
 ところで中島氏は、『醜い日本の私』の冒頭に明大前駅前商店街の写真を掲載し、おびただしい数の電線や看板に注意を喚起している。(たまたま明大前という場所を採り上げてはいるが、要は典型的な駅前商店街の光景なので、ここではそうしたものを思い浮かべていただきたい。)さてこの光景から、電線や電柱、看板の類いがすべて取り払われているさまを想像してみよう。つまり想像裡で第二次輪郭線をすべて除去し、第一次輪郭線だけを残してみるのである。すると驚くことに、景観の本質は何も変わらない。たしかに見た目の印象はすっきりする。建物のシルエットは余分な突起がなくなって明確になり、背後には、とぐろを巻いていた電線のかわりに、一枚の空がくっきりと浮かび上がる。しかし美的な質という点では何ら変化がない。そこにあるのは相変わらず矮小で狭隘な、ありふれた駅前商店街の風景である。清潔か不潔かということでいえば清潔にはなるが、決して美しくはならないのだ。
 私は週に一回、東京と静岡を往復している。そこで、行く先々の景観に、明大前商店街の写真にほどこしたのと同じ視覚上の操作をほどこしてみた。静岡から清水にいたる住宅地、興津近辺の山村風景、富士市の工業地帯、函南の山間部、熱海のホテル街、相模平野、さらには首都圏に入ってからの広大な市街地。どこも結果は同じだった。たしかに第二次輪郭線的なものを取り除くことで、建物自体の存在は際立つ。しかしそのように想像された風景も、西欧の景観にあるような構造上の美観を示すにはいたらないのである。
 二次輪郭線的なものが雑然とした印象を与えるのは、それが空間における浮遊物ともいうべき存在だからである。しかし日本においては、事情は建物についても同じなのだ。ビルにせよ家屋にせよ、日本の建築物は、空間の内部に、いわば任意の取り外し可能な存在として無秩序に並んでいる。それは看板や広告、自動販売機などと同質のものである。日本においては、本来第一次輪郭線を構成するはずの建築本体が、じつは第二次輪郭線を形成しているのである。
 そのように考えると、私たち日本人が、あたりかまわず看板を出し、自動販売機を並べ、電線や電柱で街の空間を埋め尽くすというのも納得が行く。もともと二次輪郭線的なもので作られた景観に、別の種類の二次輪郭線を加えても、景観の本質は変わらない。変わらない以上、そうした行為にためらいも感じない。いわばすでにある自動販売機の横に新しく二台目を設置するようなもので、これを置けば見苦しいのではないかとか、景観が壊れるのではないかとか、考慮するはずがないのである。