断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

日本の景観・その同一的なもの(日本の景観 その8)

 第二次輪郭線は、空間内部における浮遊物ともいうべき存在である。これに対して第一次輪郭線は、空間に対して能動的かつ構成的に作用する。すなわち元々ある自然的な空間を再構成し、二次的地形ともいうべきものを作り上げるのである。
 前回の記事で、日本では建築自体が第二次輪郭線的であると書いたが、これは都市の景観に限ったことではない。たとえば山村風景でも、建物は自然の中に「溶け込んでいる」のであって、景観に造形的なアクセントを与えているのではない。いわばそれは、美しい自然の中に置かれた「置き物」なのである。
 建築の内部においても、私たちは伝統的に、小道具に囲まれた部屋で生活してきた。卓袱台、座布団、昔の屏風や床几、行灯の類い……伝統的な日本の室内空間は、取り外し可能な小道具によって作られている。そうした生活様式は、いまや消失しつつあるけれど、たとえば室内アレンジなどに、昔ながらの感性の名残りが認められる。(日本人の室内アレンジは、欧米人に比べると、一般に平面的で奥行きを欠いている。)
 第二次輪郭線的なものへの嗜好が、私たち日本人の空間感覚の根にあるとしたら、欧米人の空間感覚は、第一次輪郭線的なものにあるといえよう。この相違は日本人と西洋人の自然観の違いからも説明できる。すなわち自然と人間とを対立的に考える欧米人は、生まの自然から切り離された生活環境を要求するが、環境というものがつねに空間的なものである以上、自然的ではない空間、人工的な空間を新たに構築する必要がある。第一次輪郭線によって形成される空間とは、まさしくそのようなものであり、文字通りそれは「第二の自然」なのである。一方の日本人は、自然と人為を対立的に考えない。したがって自然の空間をそのまま用い、そこに取り外し可能なさまざまな人工物を設置するのである。
 むろん例外がないわけではない。たとえば昔の城郭のようなものは、塀と石垣という第一次輪郭線によって、二次的で人工的な地形を構築したものである。だがそれはあくまで例外的な事象に過ぎず、景観の基調をなすのは、たいていは第二次輪郭線的なものなのである。
 ところで第二次輪郭線的なものは、具体的にどのように空間の中で用いられているのだろうか。大まかにいってそれには、二種類の方向性があるように思われる。一つは空間を、雑多な第二次輪郭線的なもので埋め尽くし、親密で活気あふれる「場」を作るやりかたである。祭りや縁日、駅前商店街、デパ地下やガード下の居酒屋などは、この種の親密さの表現である。
 もう一つの方向性は、取り外し可能な「小道具」によって、美的なものを追求するというものである。茶室や石庭などがその典型で、そこでは活気や親密さのかわりに、瀟洒と洗練とが求められる。茶室や石庭の空間は、一見したところ構成的な原理に基づいているように見えるが、あくまでもそれは空間内部における「配置」の問題であり、空間そのものを「構築」しようとするヨーロッパ的感覚とは似て非なるものなのである。
 茶室とガード下の居酒屋では、似ても似つかぬもののように思えるかもしれないが、どちらも第二次輪郭線への愛着に基づいているという点で、感性の根っこの部分でつながっている。これと似たことは欧米の文化にも認められよう。ヨーロッパの宮殿などに見られる装飾過多のけばけばしさは、第一次輪郭線的なものの過剰さであり(その意味でそれは日本の繁華街のけばけばしさとは別物である)、街並みにおける第一次輪郭線的な節度とは表裏の関係にある。
 第二次輪郭線を基調とする空間感覚は、日本人の感性のうちに深く血肉化されている。それは私たちの生活空間を同一的なものとして貫いている。日本の街並みは、良くも悪くも私たちの好みにより、その感性にしたがって作り上げられたものなのである。