断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

高校野球観戦記

 夏の甲子園大会が終わった。私の部屋にはテレビがないので、大会期間中も思いついたときにラジオのダイヤルをひねるくらいだったが、それでも野球は好きである。ピッチャーとバッターの一対一の勝負は、いつ見てもわくわくする。サッカーにもPK合戦やフリーキックのようなものがあるが、サッカー本来の魅力は、連係プレーを中心とする試合運びのほうにある。野球においては事情はまったく逆である。そこでは主役は、まさしく投手と打者の一対一の真剣勝負なのである。
 それゆえ野球では、ピッチャーとバッターの技量をクローズアップするテレビカメラが、観戦上、大きな役割を担っている。実際、東京ドームのような大球場で外野席から試合を眺めても、細かいプレーのニュアンスはほとんど伝わってこない。一方サッカーのスタジアムでは、多少距離が離れていても試合は楽しめるし、むしろそのほうが全体の見通しが利くというメリットもある。試合中継のカメラも、多少遠めに、スタジアム全体を見渡すように設定されている。
 結論として野球の試合は、バックネット裏の特等席で見るのに限る。だがこれは、いうまでもなく大きな金銭上の代償をともなう。また仮にバックネット裏の席が取れても、今の球場はホームベースと観客席が離れていて、なかなか間近にプレーを楽しむというわけにはいかない。
 さて、以上のような難問を一挙に解決してくれる場所がある。地方の球場である。地方球場、ことに老朽化したそれは、球場自体が狭く、バックネットとホームベースの距離も驚くほど近い。つまり生まのプレーを満喫できる恰好の穴場なのである。
 そんなわけで、七月も終わろうとするある日、近所の島田球場で高校野球県大会の準々決勝が行なわれているという情報を耳にした私は、帽子とサングラスで身を固め、お茶と弁当を片手に、息せき切って球場へ駆けつけたのである。
 JRの駅を出、しばらく歩いて古い工場の建物の角を曲がると、突然、鳴り物の応援で躍動する球場が目前に現れた。切符を買おうとすると、ボランティアとおぼしき高校生が切符売りをやっていた。改札係もユニフォーム姿の高校生で初々しい。スタンドに入るとすでに試合ははじまっており、客もかなり入っていたが、ネット裏に空席を見つけ、そこに陣取った。両翼90メートル、センターバックスクリーンまでも118メートル。スコアボードは手書きで、もちろんスピードガンによる表示などない。吹きさらしの簡素な放送席が、私の席の目と鼻の先にある。
 以前、草薙の近くに住んでいたとき、近所の草薙球場高校野球県大会の決勝戦をやっているのをテレビで知り、急遽駆けつけたことがある。自宅から球場までは20分とかからない距離だったので、放送の余韻を頭に残したまま球場に着いたのだが、テレビ画面から伝わってきていた試合の雰囲気と、生まの球場のそれとのあまりの落差に驚かされた。ふだん私たちは、テレビを見ながら実際に試合の熱気にひたっている気になっている。しかしテレビ画面にあるのは、じつは試合そのものというよりも放送席の(アナウンサーの)熱気なのである。ハイテク技術を駆使したテレビ画像が、輪をかけるように人工的な効果を演出する。高校野球にしてもテレビで見ていると、何だかものすごくドラマチックで熱い青春劇が繰り広げられているように思えるが、実際の球場にあるのは、もっとずっとドライな、肉体と肉体との寡黙なぶつかり合いである。
 バッターが構える。ピッチャーが振りかぶる。球をリリースする瞬間、変化球を投げる手首のひねりがはっきりと見える。バットは空を切り、ボールはキャッチャーのミットに納まる。キャッチャーはすぐ球を返し、ピッチャーもほとんど間髪を入れずにまた振りかぶる。
 この繰り返しである。もちろん勝負に直結するような緊迫した場面もあるが、テレビで見ると「手に汗握る」ようなドラマチックなシーンも、実際に球場で見るとけっこう即物的で、見ようによっては気抜けするほどあっさりしている。
 しかし球場にあるのは、そうしたスポーツの即物的な要素ばかりではない。そこには大音量の鳴り物でスタンドを揺るがす賑やかな応援がある。メガホンを叩き、体を揺らし、ときに踊るように跳びはねながら、双方、はなやかな応援合戦を繰り広げているが、それは球場全体を単なる競技場以上のものに変貌させているように見える。実際、テレビ放送の画面にあるのがバーチャルで人工的な空間だとしたら、応援によって作り出されるのは「祭り」の空間、あるいは一種の演劇的空間である。スポーツの試合における応援は、演劇における舞台演出のようなもので、大道具も小道具もない台詞だけの劇がつまらないように、応援のない試合は味も素っ気もない。スポーツは筋書きのないドラマだとはよく言われるが、これはほとんど比喩以上の比喩である。違いがあるとしたら、演劇においては必然的なものがドラマを演出するのに対し、スポーツにおいては偶然的なものがそれを行なうというだけであろう。
 試合が終わって球場を出てこうとしたら、近くの別の出口で監督と選手のインタビューが行なわれていた。間近で見る選手たちは、思った以上に華奢で、まだほんの子供という感じだった。今しがたグラウンドで繰り広げられていたプレーが、何だか嘘のような遠い出来事に思えた。