断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ナルシシズム論考

 ギリシャ神話のナルキッソスは、水面に映るみずからの美貌に陶酔し、命を落とした。ところで私たちは、もう一つの「ナルシスティックな」物語シーンを知っている。「鏡よ鏡、世界中で一番美しいのは誰?」と問いかける「白雪姫」の王妃である。どちらも「鏡」が介在しているという点で、はなはだ暗示的である。ナルシシズムと鏡とは切っても切れない縁にあるように思われる。
 さて私たちが自分自身の姿を見るには、鏡のほかに写真や映像という手段もある。だが、鏡で自分を見るのと写真や映像で見るのとでは、大きな違いがある。
 写真や映像は私たちの姿を「外」から、つまり「他者」の視点から見せる。そうして観察された「自分」は、常日頃、自分は
こうだと思っている自己像とは一致しないことが多い。なぜだろうか。
 よく言われることであるが、自分の無意識にはなかなか気づくことができない。(だからこそ「無」意識なのである。)ところが他人の無意識については、ときに驚くほどはっきりと見えてしまうことがある。本人は気づいていないような感情の動きが、他人の目からは丸見えだったりするのである。写真や映像が見せてくれるのはそうしたものに近い。つまり写真や映像は、ふだんは気づいていない自分自身の無意識を、他者の視点から照らし出してくれるのである。
 昔、バイク関係のサークルで合宿に行ったとき、仲間の一人がこっそりと飲み会の光景をビデオで撮っていた。翌朝、二日酔いの抜けきらぬ朝食の席で、いきなりテレビのスイッチが入り、画面に昨夜の醜態が流れ出した。ブーイングの嵐がわき起こったのは言うまでもないが、飲み会ならずとも自分の映像を見るというのはイヤな気分のするものである。何がイヤかというと、ふだん「自分はこうだ」と思っている主観的な自己像と、客観的な像とのギャップがあからさまに示されるからである。そもそも人間は、「自分はこうだ」という自己像に、どこかしらナルシスティックな愛着を抱いているものである。いやむしろ話は逆で、人間という生き物が多かれ少なかれナルシスティックな存在だからこそ、主観的な自己像などというものが形づくられるのであろう。写真や映像はそうしたナルシシズムを残酷なかたちで裏切る。
 写真や映像を通して見えてくる「客観的な自己像」とは、その人の「心の構え」ともいうべきものである。そうしたものは普段はなかなか自分では気づけない。たとえば傲慢な人間は自分の傲慢さを「常態」として生きている。それはその人のしぐさや話し方などと同じで、自分では気づこうとしてもなかなか気づけない。ところがそれを映像で撮ると、「傲慢さ」が「他者の視点」からありありと映し出されてしまう。誰の目にも(もちろん当人にも)一目瞭然となってしまうのである。
 鏡においては事情は全く異なる。鏡を見るとき、私たちは自分のどこを見るだろうか。「目」である。私は「私」を見るのではなく、「私のまなざし」を見る。もっと正確には、私は私のまなざしの「語りかけ」を見るのである。これは一種の内語のようなもので、自己を他者の視点から観察するのとは全然違う。私は真の意味では自己を対象化しておらず、自分を「外から見る」ということをしていない。鏡は私を決して「他者化」しない。そこにあるのは無限に反響する独白のようなものである。
 さて「白雪姫」の王妃は魔法の鏡に向かって「世界中で一番美しいのは誰?」問いかけ、「あなたが一番美しいです」と答えてくれるのを待つ。鏡はそこでは、一見したところ彼女にとっての「他者」であるように見える。だがもしも鏡が、単に「語りかけてくる」だけの存在であれば、それは鏡でなくてもよいはずである(たとえば人形のようなものでも)。なぜそれは「鏡」でなければならないのだろうか。
 彼女は鏡を見、そこに「自分の美しさ」を見出す。鏡は彼女の美を映し出しつつ、同時にそれへの「他者の評価」を告げ知らせている。鏡は彼女の眼前に「他者の評価に浸透された自己像」を提示しているのである。
 ナルシシズムの定義とは端的には「私は自分を愛する」であろう。別の面から言えばこれは、愛することと愛されることの一致ないしは未分化な状態である。ここから、「自分と似ている対象を愛する」という同性愛的な欲望へは半歩の距離である。
 「白雪姫」にあるのはそのような自己愛ではない。そこにあるのは「私は愛される自分を愛する」という、他者に媒介された形の自己愛である。「私」は他者に欲望されることを欲望するのである。
 ちなみに「欲望とは他者の欲望である」というテーゼはしばしば目にするものだが、「他者に欲望されることへの欲望」と、「欲望それ自体の他者性」とは別のものである。前者は欲望の対他的な関係相にほかならないが、後者は欲望の構造そのものを意味している。平たく言うと前者は、他者志向とか承認願望とか言われるものであり、後者は欲望そのものの普遍的なありようである。
 さて現代人のナルシシズム現代社会に蔓延している悪性の疫病のようなナルシシズムは、「何の根拠もなしに自分をすごいと思っている」というものであろう。その意味でそれは、上に見てきたようなナルキッソス型とも白雪姫型とも異なる。ナルキッソス型のナルシシズムにあるのが、自己への直接無媒介な性愛的関係であり、白雪姫型のナルシシズムにあるのが、他者の目を介した自己への価値的関係だとしたら、現代型のナルシシズムにあるのは、自己への直接無媒介な価値的関係なのである。