断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

洗脳について

 あっという間に年の瀬が近づき、冬休みまで残り10日ほどとなった。
 休みに入ると家に閉じこもって研究、という日が多くなる。ときには何日も、ほとんど人の顔を見ないということもある。そんな後に、外へ出かけていって誰かと会ったりすると、ちょうど外国へ出かけて不慣れな雑踏に足を踏み入れたときのような感覚になる。異質な生のエネルギーとでも言おうか。相手の肉体的精神的な磁力のようなものが妙に身に応えるのである。
 先週のことだが、丸一日、家に閉じこもって本ばかり読んでいた日があった。翌日、外へ出て駅前の通りを歩いていると、選挙カーが止まっていてちょうど選挙演説が始まるところだった。立ち止まって見物していると、すぐに演説が始まった。演説そのものはつまらなかったのだが、(それとは全く別の次元で)話し手の「存在」の磁場のようなものが、私自身の内部へみるみる浸透しはじめるのを感じ、慌ててその場を立ち去った。
 おそらくこうした現象の延長に、「洗脳」というものがあるのだろう。演説は聴衆が元気な昼ではなく、仕事帰りで疲れている夜の時間帯を選べというのはヒトラーの言葉だが、これは理論的な戦術という以上に、アジテーターとしての彼の深い本能の教えるところだったと思われる。
 マスメディアの「洗脳」ということがよく言われるけれど、「情報」はそれだけでは実は大して力を持たない。たとえば数式や機械的記号による情報では、他人を洗脳することはできない。言葉というものが、多かれ少なかれ情動的な力を発揮するからこそ、他人の人格や判断力に影響できるのである。その意味で新聞よりはテレビが、テレビよりは生身の人間の声が、より洗脳に適している。逆に言うと私たちは、日々、生身の他人に接することで、ほとんど気づかぬほど微妙に、お互い「洗脳」し合っている。モナドは「相互に影響し合う」ものなのである。
 それでは他人や社会を避け、どこかに一人で閉じこもったら、「洗脳」されずにすむのだろうか。そうしたら私たちは、今度は自分自身に洗脳されてしまうのである。